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■ 永井隆コレクション01〜長崎の鐘 (5) ■
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玄関車寄に群がっていた人々は? と見おろす広場は所狭いまで
に大小の植木がなぎ倒され、それにまざって幾人とも数えきれぬ裸
形の死人。橋本君は思わず両手で目をおおった。地獄だ、地獄だ。
呻き声ひとつたてるものもなく全然死後の世界である。目を押さえ
ているうちにすっかり暗くなってしまった。目をあけて首を 廻し
てみるけれども、物音ひとつせず、糸ひとすじもみえぬ真の闇。こ
の世の中にただひとり生き残ったと思ったとたん、背筋がずーんと
して足がすくんでしまった。死神の爪はやがて私の頸筋をつかまえ
るだろう。ふるさとの家がぽうとみえた。母の顔がみえた。橋本君
はわっと声をあげて泣きだそうとした。まだ十七才の女の子だった。
と、その時「おーい、おーい」と呼ぶ声がきこえてきた。すぐ近く
の足許らしくもあり、なん枚か壁を隔てた向うらしくもある。「おー
い、おーい」また呼んだ。部長先生の声だ。部長先生が生きている。
先生と二人生き残っているのなら、あれだけの玄関の死人の処置
もやれるに違いない。橋本君はたちまち、べそをかく小娘から勇敢
な看護婦にたちかえった。そうして声をたよりに隣の室へゆこうと
すると、レントゲン撮影台らしい物やら電流コードやら、闇の中の
ゆくてを阻んで足を運ぶことができない。スコップのおいてあった
隅へ手さぐりで行ってみると、どこへ飛ばされたのかなくなってい
て、その代りにメガホンが手に触れた。階下の透視室には鍬もあり、
婦長さんたちもいるのを思い出し、これはみんなの加勢を受ける方
がよいと判断して、撮影室を出て行った。毎晩灯火管制で歩き慣れ
た廊下ではあったが、二、三歩ゆくと、ぐにゃりとしたものにつま
ずいた。しゃがんで撫でてみると人間。べっとりと血らしいものが
掌についた。腕をつたわって手首を握ってみると、脈はない。可哀
そうに、橋本君は合掌をして、そこからまた二、三歩ゆくと、また
も倒れている人につまずいた。髪がぬらりと手首にねばりつく。ま
だあたりはまっくらだ。この闇の、この私のまわりに一体なん人死
んでいるのだろう。橋本君は脈をさぐりながらみえぬ目を見開いて、
あたりを見廻した。
突然ぽうと赤くなった。窓の外に火が燃えだしたのだった。ちろ
ちろと焔は次第に大きくなる。そのうす赤い火に照らしだされた目
の前の光景は! 橋本君は思わず死人の脈を手離して突っ立った。
広い病院の廊下に赤い逆光線をうけて、転がっている人の肉体。う
つ伏し、横ざま、あおむけ、膝を曲げているのもあり、虚空を掴ん
でいるのもあり、立とうともがいているのもある。橋本君はこれは
独力では手がつかぬ、まず救護隊が集まり、組織的な団体活動でな
ければだめだと悟った。それではとにかく皆を部長先生の埋ってい
る処へ集めよう。ご免ね、ご免ね、とことわりをいいながら死人を
とびこえて階段を、透視室へと下って行った。
透視室の連中はレントゲン透視台を組み立てている最中だった。
びゅうんと奇妙に疳高い爆音をきいた。看護婦生徒の椿山が「あれ
なんでしょう?」という。「ありゃB29の爆音たい。」せっせと
ペンチを動かしながら 技手の史朗がいう。「爆弾おとしたぜ。」
このあいだの爆撃で腿をやられた経験のある長老技手がいう。「か
くれよか。」「うん。」「婦長さん、退避、退避。」三人は大きな
卓の下へもぐりこんだ。ぴかっどん、と来た。「また落ちたばい。」
史朗の声もがちゃがちゃ室中暴れ廻る爆風にもみ消されてしまう。
みんなじっとして鎮まるのを待った。椿山が呼吸をしない。「おい、
やられたかい?」「いや、あなたは?」「どこも痛くねえ。」「おー
い、婦長さあん!」大声で呼んでみる。「はーい。」とすぐ隣の部
屋からいつもの通り愛嬌のいい返事がかえって来た。「ちょっと待
って下さいよ。何やかや私の上に乗っかってるんですもの。」
そのうちに汽車がトンネルにはいる時のように、あたりはごうご
う唸っていながら、真黒になってしまった。向かいあっている椿山
の白い顔が忽ちなくなった。
「これは一体なんだい?」長老の声。
「新型爆弾だぞ、例の広島の。」史朗の声。
「いや、太陽が爆発したんじゃないかな。」長老。
「うん、そうかもしれん。急に気温がさがったごたる。」史朗が考
え考えいう。
「太陽が爆発したら、世界はどうなります?」
椿山看護婦がおろおろ声でたずねた。
「地球も終りさ。」長老がぼっさり答えた。みんな黙って待ってい
るが、やっぱり明るくならない。一分たった。闇の中で時計の秒を
刻む音が印象深い。
「それで、ひるめしはどうする?」史朗。
「さっき食っちまったさ。お前持っとるか?」
長老がこの世の名残に一口食いたそうにいう。
「うん。死なぬうちに分けて食おうや。」
すると、汽車がトンネルを出る時のように、あたりがしずかにな
りながらすうと明るくなって、長老の白い歯が見え、史朗の長い鼻
が見え、椿山のちっちゃいえくぼも見えて来て、「ああ、太陽は大
丈夫だったんだがなあ。」と史朗がいい、「しかし昼飯は分けてお
くれよ。」と長老がいって、三人は窮屈な卓の下から、硝子の粉、
器械の断片、椅子の残骸、電線の網の中へ這いだしてきた。
「いったいどこへ落ちたんだろう? これだけ壊すにはこの室に命
中しなきゃならん筈だが、天井に孔もあいとらん。」
「爆弾の落下音をきいたかい。」
「いや聞かなかった。」
「それじゃ――空中爆雷かしら?」
「とにかく、凄い奴だぜ、こいつは。」
そこへ隣の室から久松婦長さんが手まりみたいな姿を現わした。
乱れた髪の毛を両手でなでつけながら「みんな大丈夫?」ときいた。
その後から看護婦生徒の一年生がとび出して婦長の腰にしがみつい
て、泣きはじめた。
「馬鹿さんだね、あんた。生きとるじゃないの。」
一年生がしゃくり上げた。友達がすぐ傍で死んだらしい。
「さあさ、防空頭巾をかむって、繃帯嚢をさがしていらっしゃい。」
久松婦長さんは、しゅうしゅうと水を噴いている水道管の所へい
って両手を丁寧に洗い、顔を洗い、うがいをした。「何だかガスを
吸ったような気がする。」といいいい、全く肺の奥まで洗いたいよ
うな勢いで、四回も五回もうがいをした。
「椿山さんも来て手を洗いなさいよ。そんな土だらけの汚ない手で
ガーゼを扱ったら、創がすぐ化膿します。友清さん、あんたも顔と
手を洗いなさい。施さん、さっさと用意して下さいね。負傷者はだ
いぶん多いようです。」婦長さんが手を拭き拭き言った。
友清史朗君は「はあ。」と答え、施長老君は「おい。」と答えて、
すぐに準備にとりかかった。
ぱちぱち音がきこえる。窓際へとんでいった椿山君が「火事です、
火事です。」と叫んだ。五人はそこに転がっていたバケツを拾うな
り水槽へ我おくれじと駆けだした。旧レントゲン教室の疎開跡のま
だ材木を片附けていない広場は、まだ焔のたけは低いけれども一面
火の海である。五人はかねて防空演習でやりつけた通り一方の隅か
らバケツの水をぶっかけ始めた。然し火の手は此処ばかりではなか
った。病院の廊下はすっかり吹きとんで跡方もなく、食堂もつぶれ
て一面に火を噴いている。残っているのはぽつんぽつんとコンクリ
ートの病棟ばかり、木造の建物はすべてなくなって、その代りに焔
がたっている。しばらく水をかけていたが、消える面積よりは燃え
ひろがる方が速い。とてもバケツ注水では間にあわぬという見透し
がついた。