テキストファイル化騎士団

美と健康 豊かな感性と暮らしをもとめて

永井隆「長崎の鐘」(11) 

永井隆「長崎の鐘」(11)


   五、その夜


 私たち教室員はうち揃って学長のねておられる畑へ行った。藷畑の隅に外套をかぶり丸くなって雨にぬれておられるのを見てつい涙が出た。調教授を中心とする医員学生の一団が駈け廻って手当に忙しい。私は学長に報告を終り二十歩ばかりゆくと眩暈を感じ、脚のよろめくのを覚えた。丁度そこに長老から介抱されながら梅津君がねていた。これも雨にぬれている。私はその脈を握ってみたが案外強かったので安心をした。上衣をぬいで梅津君にかけてやり、五、六歩ゆき、畑をひと段降りると同時にくらりとして私は卒倒した。
「頸動脈をおさえろ。」施先生が叫んでいる。頸筋をぐっと押さえられた。眼をあけて仰ぐと、赤い雲の下に施先生と婦長さんと豆ちゃんと、どうしたかと心配していた金子技手の顔がのぞいていた。「結紮糸、コッヘル、ガーゼ、ガーゼ。」慌ただしく先生が怒鳴って、私の耳の辺りの創の中へ何か痛い物を突っ込む。冷たい金属の触れあう音がして、時々どっと温かい血が頬へ溢れる。「おさえて、拭いて、ガーゼ。」先生が頻りに怒鳴る。時々コッヘルの先が神経繊維を挟むものとみえ、全身の痛感が一挙に目ざめて、足の爪先がぴんと突っ張る。私は思わず手に触れた草の根を握りしめた。
 調教授が駈けつけて下さった。施先生が何かぼそぼそ言っている。脈が握られた。私は観念の眼をとじた。
「動脈の断端が骨の蔭に引っ込んでるんでね。」と教授は言われた。またも何回か私の足先はぴんと突っ張り、手は草の根を振りしめねばならなかった。けれども手術は手際よく成功した。「永井君、大丈夫だ。血は止ったよ。」そう云って教授は立ち上がられた。私は御礼を申し上げた。そして全身が急にだるくなり、気が遠くなっていった。
 日は落ちた。地上は炎々と未だ燃えさかり、空一面ひろがった魔雲は赤く妖しく輝いている。西の方稲佐山の上のみが僅かに空をすかせて、三日月が細く鋭く覗いている。高南病棟の上の谷間に男組は板を拾い藁を集めて仮小舎を造り、女組は鉄兜で南瓜を煮て夕餉の支度をととのえた。長井君と田島君とが県庁まで非常食糧を貰いに出かけて行った。畑の中に南瓜の煮える火を囲んで私らは小さな輪をつくっていた。僅かに生き残った者のこのちいさな輪よ。お互いに顔を見合わせて、この輪をつくるこの僅かな人間同志こそ底知れぬ因縁の絆に結ばれていたに違いないという気がした。私達はお互いに手をとって固く握りあってじっとしていた。もう暗くなった上の森から「担架きて下さい。」「誰か注射にきて下さい。」と哀れに呼んでいる。友の名をよぶ声、親を求める声、聞き覚えのある声、大勢声を合せての叫び。しかし私達はもう七人の仲間を死んだものと諦めていた。皮膚科の崎田君は大腿骨折で身動きもかなわず今壕の中にねせてあるという。藤本君は講堂の床下から九死に一生を得て、杖をつきつき、さっきここを過ぎたので自宅へ帰らせた。あとは辻田君と片岡の蛸ちゃんと山下君等五人の看護婦である。彼等は生命さえ残っておれば、どんなにしてでも教室へ帰ってくる人々であった。たとい霊魂がまさに肉体を離れんとして唯髪の毛の先でつながっているほどの瀕死の重傷でも、必ず私達のところまで這って来て、それから死ぬ筈の仲間であり、それほど堅い私らの団結だった。もう八時間も経過して、姿をみせぬが故に、あの人々は即死したに違いないのである。私達はじっと黙祷をささげていた。
 のっそりと裸の大男が現われた。
「おっ、永井先生。見つけたぞ。」
「あら、清木先生。生きていましたか。」
「わし一人じゃ。」どたりと尻餅をついた。手についてきていた焼けのこりの角材がからから音をたてて倒れた。ふうふう肩で息をしている像はまさに傷つける闘牛か。
「すぐ来て下さい。学生達が死にかけとる。もう半分以上死んじもうた。注射しに来て下さいよ。見殺しじゃけん。薬専の壕じゃ。」
「すぐ行きます。さあ、まあ南瓜でもお上がりなさいよ。」
「いや南瓜どころじゃなか。南瓜を何百食ったって学生は助からん。すぐ行きましょうや。」
 施先生、婦長、橋本君、小笹君が医療嚢をもって立ち上がった。清木先生は史朗から手をひいて貰って、やっと立ち上がることが出来た。
「大学はなくなってしもうた。とにかく、えらいこっちゃ。みんな死んでしもうた。途中はひどいんだぜ。たった三百米しかないのに一時間かかった。それじゃ、また来ます。ああ、よかった。学生が助かります。」
 先生は婦長さんの肩につかまりよろよろしながら再び燃える大学の中へ入って行った。この一隊はこの夜を基礎医学教室の裏丘を中心に、残りの大倉先生、山田君らの一隊はここの仮小舎を中心に夜間の救護をつづけるのである。私と梅津君とは仮小舎の藁のなかにねせられた。虫も死に絶えたものとみえて、あたりは寂莫としている。
 地に満ち空を焦がす大火の反映の明りを頼りに呻き声にひかれて傷者に近づき、創を巻き注射をし、これを抱いて引きあげてくる。路は思いがけなく焔の屏風に遮られ、転ずれば倒木縦横に交りて越すに由なし。ある時は吹き崩された石垣をよじ登り、ある時は石橋の吹き飛ばされたのも知らず患者もろとも溝にはまる。足裏は既に幾度か釘踏み抜いて一歩毎に痛みをおぼえ、膝頭はガラスに擦り切られてもんぺとくっついている。救護隊は医学専門部の高木部長を発見して収容する。石崎助教授、松尾教授を相次いで担ぎ込む。仮小舎もようやく呻き声にみちてきた。谷薬局長の令嬢も重態だ。通りかかった保険集金人がころがりこむ。二人の囚人も宿を求めた。
 敵機は二回来た。ビラ弾のはじけるにぶい音がした。
 夜半火勢は漸く衰えはじめた。死に果てたのか、諦めたのか、疲れて眠ったのか、叫びは全く絶えて、天地寂として声なく、まことに厳粛なひとときである。げにさもありぬべし、まさにこの時刻東京大本営に於て天皇陛下は終戦の聖断を下し給うたのであった。地球の陸と海とを余す処なく舞台として展開された第二次世界大戦は、次第に高潮し、更に如何なる波瀾を巻き起すやと気遣われていたが、突如原子爆弾の登場によってクライマックスに達し、ここに俄に終幕となったのである。たしかに厳粛な一瞬である。私は放射能雲の妖しく輝いて低迷する空を胸のつまる想いで眺めていた。この放射能原子雲の流れゆく果は何処か。前途は凶か吉か? 正か、はたまた邪か? この一瞬、この空から新しい原子時代は開幕せられるのである。

永井隆コレクション01〜長崎の鐘 (10)  


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■ 永井隆コレクション01〜長崎の鐘 (10) ■
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「学長先生をお救い致しました。」友清君の声にふりかえると玄関
に真赤な風呂敷をおんぶしている。駆けつけてみると真赤なものは
角尾先生だった。白髪から顔から、白衣からずぼん脚絆まですっか
り血で染まっていらっしゃる。眼鏡はない。「ああ、永井君、大変
だね。御苦労だね。」と申された。私は脈を拝見したが、格別弱く
もなく不整でもなかった。裏の丘が安全だからここから二百米ほど
登って適当な処に休んでもらうよう友清君にいいつけた。施先生が
注射の用意をもってついて行った。学長先生は外来患者の診察最中
にやられたのだった。黄先生も重傷を負っていたが学長を扶けて廊
下まで出たものの自らは出血のため起つ能わず、そこへ友清君が探
しに行って救い出して来たものだった。暫くして内科の前田婦長が
病棟から飛び出して私を見るなり「学長先生は?」ときいた。「裏
の丘、二百米、施先生もついてる、大丈夫。」と私は答えた。婦長
は眉の上から血を垂らして、まっ蒼だ。いきなり裏の丘へ走り去っ
た。あんなふとっちょの婦長さんが、こんなにすばしこく岩山を這
い登り、坂を駆け上がるのかと私はぽかんと後姿を見送った。

 橋本君は十七才、椿山君は十六才、どちらも身体の縦と横との釣
合いが変調をきたし、愛称を樽ちゃんといい、豆ちゃんと呼ぶ。こ
のちんちくりんのずんぐりの樽ちゃんと豆ちゃんとが予診室へ入っ
てみると患者と、学生といりまじって七人唸っている。二人は入口
の大きな男を引き起し、縦抱きの要領でしずかに抱き上げ、そのま
ま階段を下ってコークス置場へ運んだ。すぐ引き返して次の学生を
同じく運ぶ。三人、四人、一室がすむと次の検査室。ここには顔み
しりの看護婦さんがいた。それを抱いて階段を降りながら樽ちゃん
は、生まれて始めて知る歓喜の念を覚えた。それはなんとも云えぬ
崇高な、幸福な、歓喜だった。この浜崎さんは私に抱かれて火の中
から出ようとしていることも知らず、かすかに呻いている。豆ちゃ
んも私もこのことを口外しないなら、浜崎さんは永久に私達から救
われた事を知らないだろう。もし万一助かることがあったら、廊下
などで遇った時何も知らずに通り一ぺんの会釈をして行き過ぎるだ
ろう。そう思うと知らず識らずに頬の肉がくずれて来る歓喜を感じ
た。幼い日に赤いぐみの実をクリームの空瓶に塩漬にし、私独り知
っている納屋の隅の味噌桶の裏に隠して、姉にも知らせず弟の目を
もはばかり、朝夕こっそりその味を試しに入って艶々しいぐみの実
を、まるでルビーかなにかの宝石のように見つめた、あの純粋な仄
かな歓喜を聯想した。

 豆ちゃんはまた違ったことを考えていた。今日の大人の人はなぜ
こんなに軽いのだろう。かねて傷者運搬演習や診察室で輸送車から
透視台に患者さんを移す時など三人掛りでもあんなに重かったのに
と不思議だった。恐らくは出血のため体重が減っているのだろう。
それにしても永井先生の防空演習は余りに烈しかった。実戦がこの
くらいの怖しさ、苦しさ、難しさであるのなら、演習をあんなに怖
しく、苦しく、難しくやらなくてよかったろうものを。看護婦養成
所へ入学すると間もなく胆試しをやらされた。暗室のほの暗い明り
の中に技手の方達や上級生の看護婦さんが死人や負傷者を真似て呻
いている処へ、一人一人まだ解剖さえ習わぬ一年生をゆかせて脈を
しらべさせられた。あの時のぞっとした感じなど今日本物の死人と
負傷者を抱いたってちっとも起りはしない。運搬演習だってあの穴
孔法の岩山の目の眩む山腹をお互いの身体をロープで縛ったりして
患者運びをやらされたものだ。消防にしたところで、いきなりエレ
クトロンの真弾を窓からびゅうびゅう火花の噴くまま投げ込んで、
そらそら消さねば本当の火事になるぞと度胆をぬかれたっけ。それ
につけてもこの一年間いっしょに泣いたり笑ったりして演習や実の
空襲に働いた小柳さんや吉田さんがここにいぬのが寂しくてしよう
がない。何処にいるのやら焔に隔てられて生死も不明だが、何だか
今そこらまで帰って来ているような気もする。豆ちゃんは窓へ顔を
出して「吉田さあん、吉田さあん」と叫んでみた。樽ちゃんも並ん
で顔を出して「井上さあん、ミッちゃん」と叫んだ。火焔がまたも
ごうと唸って此方へ崩れる。

 二人が次の傷者を救い上ってくる度に一室一室と火焔の占領する
室はましていた。しかし火と煙の渦巻いている室に手拭でしっかり
鼻と口とを押えて這い込み、傷者を引きずり出すのが今はなにより
も楽しく嬉しかった。出てきて熱い熱いと思うと袖口に火がついて
いた。二人はほんとうに看護婦であることの幸福をさとった。

 気絶している患者はむしろ楽だったが、意識のある患者は、創が
痛いとか、苦しいからゆっくり運べとか、忘れ物をとってきてくれ
とか、ちり紙を探せとか、苦情を並べててまどらせ、思わず時間を
浪費してしまった。その上この爆撃の大惨害を知らず、この病棟に
火の廻っていることも悟らずにいるものだから、腹の立つほどのん
きな我が儘を言いたてて困らせた。内科の病棟には全身の急性関節
リウマチスの患者がいて、大倉先生と山田君とが抱いて出ようとす
ると、痛い痛いとわめきだし、そんなに痛い目にあわすならこのま
まおいてくれと言った。仕方なく他の患者から運び出して、とうと
う最後にこのリウマチスだけになった。もう一度と抱きかけると担
架でなけりゃ嫌だと駄々をこねる。二人はあちこち探し廻るけれど
も役にたつ担架は一つもない。


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 だいぶん時間を費やして、仕方がないからと更に病室へ行ってみ
たら、そこにはもう火焔がまいていた。大倉先生は私のところへ駈
けつけて、「一人だけどうしても出ません。」と訴える。私は「そ
れだけ尽したらもういいです。その患者の責任は私が負いましょう。」
と言った。しかし大倉先生と山田君とは人殺しをしたような顔をし
て、焔の舌の舞うあの病室を見上げている。

 腕時計は既に二時を廻っていた。いつのまに三時間もたったのだ
ろう。火災は今が最も熾である。風はさっきから西風だった。何十
米の焔の見上げるばかりの空にお互いに高さを競い、風に押されて
は東へくずれかかる。大学は町の風下になっているのでこのコーク
ス置場も危険になった。私は患者を更に丘の上の畑に移す決心をし
た。これはなかなかむずかしい作業だった。なにしろ路が狭いうえ
に家屋の破壊物で塞がれているので、岩肌や石垣をよじ登って瀕死
の傷者を次からつぎと運びあげるのである。私も二人背負って這い
上がったが三人目にはもう力がぬけてしまっているのを自分で知っ
た。こめかみ動脈の出血が依然止らず、あれから一二度三角巾をと
り換えたほどである。婦長さんが顔色が蒼いと注意してくれた。成
程脈もよほど細くなっている。樽ちゃんと豆ちゃんとが軽々と大き
な男を背負っては上る。赤ん坊の泣声がする。母親は重傷で意識が
ない。二ヵ月位の赤ちゃんが出臍をふくらまして横で泣きたててい
る。もう火は近いので私はせめて子供だけなりと抱きあげて上の畑
へ登り、浜崎君の隣にねせた。そのとき浜崎君が突然うーんと唸っ
てぐたりとなった。私はああ駄目だと思い、鋏を出して彼女の前髪
を切り取りポケットにおさめた。山田君と婦長さんとが親と子と離
しては可哀そうだといい、下からまた母親を抱き上げて来た。赤ん
坊を胸のところに添えてねせると烈しく泣きたてた。意識のない母
親の手が赤ん坊の方へ動いた。

 大粒の雨がぽたぽた降りだした。指頭大の黒い雨で、くっついた
処は重油か何かのように色がついた。これは上の魔雲から落ちてく
るようだった。情景はいよいよ凄惨を極める。空気中の酸素が燃焼
に費やされたのと、酸化炭素の発生が著しいのとで、この火焔の谷
の中では呼吸が重苦しい。誰も犬みたいにはあはあ息づいて働いて
いる。その次に時計をみたら四時だった。患者はすっかり安全な丘
の畑に並べてねせた。どこか屋根のある処をと、学生の斥候は四方
に走ったが、どこも火ばかり、ここより他に適当な箇所はなかった。

 私達はそこに坐って飯を食った。胸がいっぱいでという看護婦達
にも、これから何日何ヵ月、こんなことが続くか判らんぞといって、
兎に角皆がかねて用意の非常食を食べた。腹が出来ると自然に落ち
着いてきた。それから一人一人患者の訴えをきいて丁寧な手当をや
りはじめた。止血帯を締めなおす。創の縫合せをする、三角巾を巻
きなおす、沃丁をぬる、水をのませる、布団や筵をみつけてきてか
ぶせる、副木をあてる。

「ああ標本室が煙を吐く。」長井君が叫ぶ。ああ十数年苦心して集
めた学術標本、再び手に入れられぬ貴重な症例写真が今一陣の煙と
化しつつある。「ああ撮影室が燃える。」「治療器械もさようなら
か。」患者の救出に時間をとられて、ついに器械と標本とを取り出
すことが出来なかった。私達の日々の知識の糧だった文献も、学術
進歩の記念だった標本も、吾が子のように、吾が腕のごとく愛し親
しんだもろもろの器械も、今すべて赤い焔と変って天に昇ってゆく。
すべての希望、かずかずの想い出がこの目の前に黒い煙となって消
えてゆく。私達は唯茫然とそれをみつめて立っていた。火勢はいよ
いよ猛烈で、ついにフィルム倉庫に引火したとみえ、どす黒い煙と
焔とがどっと吹き出し、どうどうと焔が鳴りはじめた。私は膝の力
が抜けるのを感じ、「おしまいだ。」と呟くと、ぐたぐたと畑の上
にへたばった。婦長さんを始め看護婦たちが、しくしく泣きだした。

 大学は完全に一塊の火となった。今は最後である。大学長角尾教
授はあの通り重傷である。病院長内藤教授の姿を見かけた者はいな
いから恐らくは病院とその運命を共にされたのであろう。連絡学生
の報告では元気なのは古屋野、調両教授のみ。他は殆どみな姿を見
ず、ただ北村、長谷川両教授が血塗れになって医員から扶けられつ
つ裏の山へ登られたのを見かけたのみだという。学生、看護婦の八
割は死んだらしい。生きている者も傷者が多く、今この上の丘で活
躍している外科を中心とする一団と裏門附近に働いている皮膚科小
児科を中心とする二団を合せても元気な者は五十名位だろうという。
基礎医学教室は全員絶望との話だから、大学は人的にも物的にも全
滅したと認むべきである。丘の上に立って燃える大学の最後の姿を
見おろしている私達は、まさに昭和の白虎隊だった。

 大倉先生が病室から白い大きなシーツを取り出して来た。私は自
分の頤から垂れ下っている血餅をむしりとって、それで大きな日の
丸を染めつけた。竹竿にこの一坪余りの日の丸をくくりつけて押し
立てると、熱風がふきつけてはたはたと大きく鳴った。腕まくり、
白鉢巻の長井君がそれを両手に掲げた。黒煙のなびく丘を血染めの
日の丸が上がる。私らは粛々としてそれに従った。時に午後五時。
かくのごとくにしてわが長崎医科大学は戦に敗れ、灰燼に帰したの
である。

[ 2005/10/30 00:13 ] [文芸]永井隆コレクション01〜長崎の鐘 | トラックバック(-) | コメント(-)

永井隆コレクション01〜長崎の鐘 (9) 


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■ 永井隆コレクション01〜長崎の鐘 (9) ■
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 どの窓をみても烙の林だ。周囲はすっかり大火になってしまった。
この建物の一角にも火は燃え移ったらしく、ぱちぱち音がし始めた。
機械を調べていた仲間が次々に帰って来た。

「もう滅茶苦茶です。」「管球類は全部破損。」「電纜は断線、変
圧器は通路を塞がれて引き出せません。」「標本は吹き飛んで手が
つきません。」報告はすべて惨また酷。

 みんなが私の口を開くのを待ってじっと私をみつめている。他の
科の先生や看護婦や生徒が血まみれになって二人三人手をつなぎな
がら物もいわずにそばを走り去る。ごうと火焔の鳴るのがきこえ、
窓から火の粉を吹きこんでくる。どうしたら好いか。私も皆の顔を
じろじろ見廻すばかり。こんな時にはあわてては駄目だ。落ち着い
ていたら焼き殺される。あたりまえにしているわけにもゆかぬ。そ
う考えて私は思わず、にやりと笑った。余り突忽に笑ったので皆も
ついぷっと吹き出した。「わっはっはっは。」一同声をたててひと
しきり笑った。

「お互いのざま見ろ。それじゃ戦場へ出られんぞ。さあ、きちんと
身支度をして玄関前へ集まろう。お弁当を忘れるな。腹が減っては
戦は出来ぬぞ。」
「よいしょ、よいしょ。」みんな元気な掛声を出して自分自分の部
屋へ帰って行った。その後姿を一々見送りながら私は皆が平常心を
とりもどしているのを知った。

 施先生が靴を探してくれ、婦長さんが鉄兜や上着を見つけてきて
くれた。私はのろのろと玄関の方へ出ていった。婦人科の前の廊下
を看護婦がひとり、眼を虚ろにしてくるくる歩き廻っている。背中
を強く叩いて「おい、しっかりしろ。」というけれども気がつかぬ
らしく、そのまま同じ運動を続けている。衝動が激しかったので一
時的精神異常をきたしたものらしい。玄関前車寄にはおびただしい
死傷者だ。しかも下の町から次々と創を押さえた負傷者が救護所は
何処、受附はとたずねつつ上って来る。病院の各病棟からも傷者を
背負い、或いは肩にかけ三々五々ここへ出て来る。一体どう処理し
たらいいのだろう。一人一人の生命は尊ぶべきものである。どの人
も自分の身体が大切であり、大小に拘らず創にはすべて関心をもっ
ており、そうしてよい医者にみて貰いたいのである。私はこれを診
ねばならぬ。

 しかしこの夥しい傷者と、なくなった薬と、迫りくる焔と、少な
い私達の手と――私は三人手当をしてから、これは大局に目をつけ
ねば折角繃帯を巻いた怪我人もろとも火焔の中に捲き込まれんとす
る危地にあることを知った。

 既に被爆後二十分。浦上一帯は火の森林と化した。病院も中央か
ら燃えひろがりつつある。僅かに火の見えないのは東側の丘のみ。
ポンプ、バケツ、水槽、元気な人間、消火に従うべきものは一瞬に
なくなっているのだから、ただ火の燃えひろがるのに任せるばかり。
生き残った者も強力な放射線に貫かれ着物ははぎとられて素裸のま
ま、下の町から焔を逃れてよろめきつつ山へ登ってくる。子供が一
人で死んだ父親を引きずって通る。

 首のない赤ん坊を抱きしめた若い女が走る。年寄夫婦が手をつな
いで喘ぎ喘ぎ登ってゆく。走りながらもんぺがぱっと燃え上がって
そのまま火の玉となってころがるのもいる。火にとりまかれた屋根
の上でしきりに歌いながら踊っている人が見える。気狂いになった
のだろう。後をふり返りふりかえり走るのもあり、頭もふらず突っ
走るのもある。姉はおくれる妹を叱り、妹は姉に待ってとせがむ。
うしろへすぐ烙は迫っている。

 こうして焔の中から運よく逃れえた者は十人に一人位のものだろ
う。あとは今、目の前で家の下敷となったまま焼かれつつある。ご
うと火が唸っては風向きが変り、遠く近く救いを求める声が相続く。
私は腕組みをして凝然と立っていた。この時ほど自分という者の無
力を悟ったことはない。この目の前に苦しみつつ死にゆく人をどう
しても助ける術はないものか。

「先生、不動明王のごたるですばい。」
 医専三年の長井君と堤君とがやって来た。レントゲン科の仲間も
きちんと身支度を整えて集まってきた。壕の中へとびこんでいた森
内君も、無事な顔をみせた。そこへ転げるように走って来て婦長さ
んに抱きついたものがいる。婦人科レントゲンの小笹技手だった。
髪の毛が焼けちぢれて臭い。もんぺも破れている。火の中から看護
婦二人を救いだし焔をくぐって無我夢中でここまで駆けつけたとい
う。あとは皮膚科、外科のレントゲン技手の崎田君と金子君だけだ。

「機械はあと廻し。人間を救い出そう。」
 私はこう決めた。二人ずつ組になって燃える病棟の中から患者を
担ぎだすのである。小笹君と森内君は崎田と金子を探しに火焔の中
へ入っていった。長老が梅津君を背負って裏山へ登ってゆく。まる
で日露戦争の絵のようだ。私たちが再び入ってゆく建物からは、漸
く物の下敷からぬけ出した人々が全く命からがらといったふうで目
の色を変えて走り出して来る。言葉をかけても返事もせず、ふりか
えりもしない。恐らくは無我夢中なのだろう。大学病院から離れて
一体どこで誰にみて貰うつもりなのか。私は一人一人に「あわてる
な」の声を浴せかけた。地下室の手術場へ入ってみたら、水道管が
破裂して大洪水だ。隣の衛生材料置場に入ってみて更に暗然となっ
た。担架すらばらばらにちぎれ飛んでいる。手術器械はそこら一面
にばら撒かれ、水薬と粉薬と注射液と、いずれも容器が壊れて内容
が入りまじりその上に惜しげもなく水道管から水をふり注いでいる。
ああ! 今日のためにこそこの材料を集めたのではなかったか。今
日のためにこそ担架の演習や救護の講義を繰り返したのではなかっ
たか。何もかも大失敗だ。脚をもがれた蚊のように爪を取られた蟹
にも似て私達はこれから徒手空拳この幾万と数知れぬ負傷者の前に
立たされる。全くの原始医学だ。この知識と、この愛と、この腕と
で、ただそれだけで生命を救わねばならぬのである。私は悄然と階
段を登り、再び玄関前の広場につっ立って、全般の指揮をとること
にした。

 それでも私のまわりに医員と学生と看護婦と二十人ばかり踏み止
まって最後の救出作業に従った。二人組は次から次へと部屋に倒れ
ている傷者を手運びで救い出してきた。それは皆玄関横のコークス
置場に並べられた。火の粉のおちぬのは今ここだけだった。私はそ
の真中にただのっそりと立っていた。火勢はいよいよ烈しく、空は
黒煙渦を巻き、また例の魔雲も火の色を反映して、赤く妖しく輝い
ている。何だか心細い情景である。



[ 2005/10/23 18:16 ] [文芸]永井隆コレクション01〜長崎の鐘 | トラックバック(-) | コメント(-)

■ 永井隆コレクション01〜長崎の鐘 (8) ■ 

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■ 永井隆コレクション01〜長崎の鐘 (8) ■
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  四、救護


 八月九日午前十一時二分、浦上の中心松山町の上空五百五十米の
一点に一発のプルトニウム原子爆弾は爆裂し、秒速二千米の風圧に
比すべき巨大なエネルギーは瞬時にして地上一切の物体を圧し潰し、
粉砕し、吹き飛ばし、次いで爆心に発生した真空はこの一切を再び
空中高く吸い上げ、投げ落したのであり、九千度という高熱が一切
を焼き焦がし、更に灼熱の弾体破片は火の玉の雨と降って忽ち一面
の猛火を起したのである。推定三万の人が命を失い、十余万人は重
軽の創傷を負い、更に放射線による原子病患者は数限りなく発生せ
んとするのである。空中に生じた煤煙と土煙とは一時全く太陽光線
を遮ったため下界は日蝕のように暗闇となったが、三分もたつと煙
の膨脹拡散するにともない、その密度が小さくなって再び太陽の光
と熱とをわずかに通過せしめるようになった。

 独力で私が脱出して撮影室に現われた処へ施先生が顔を見せ、橋
本君、婦長さんの一団が駆けつけた。「よかったわ、よかったわ。」
口々に叫んで私に抱きついた。私は一人一人の顔をみた。尊い生命
だ、よく生きていてくれた。けれどもまだ足らぬ。山下君は? 井
上君は? 梅津君は?

「他の者を探して救いだせ、五分間後ここに集まれ!」
 一団はさっと各部屋へ散らばっていった。施先生と史朗とが現像
室でがらくたを引き上げ引き上げ、下をのぞいて「おーい、おーい。」
と呼んでは耳を傾けている。反応はない。史朗が「森内君、死んど
るのか?」と怒鳴った。

 レントゲン治療室の機械の間から長老が重傷の梅津君を救い出し
てきた。ぐったりとなって、鮮血にまみれた梅津君は廊下へべたり
と坐って「目の無かばい。」と言った。長老が「何言うか、目はあ
るばい。」といいながら、創をあらためている。目の上がざくりと
割られその他大小一面の創だ。婦長さんが「大丈夫よ、大丈夫よ。」
と励ましながら手際よく沃丁を塗りガーゼを当て三角巾を巻いてゆ
く。私は梅津君の脈をしらべ次々と手当の指図をする。「先生救け
て下さい。」「薬をつけて下さい。」「創を診て下さい。」「先生、
寒いです、着物を下さい。」口々に言いながら私らの周囲に異様の
裸形が群がって来た。そこら一面投げ飛ばされた患者のうち、息の
根の未だとまらぬ人たちである。丁度外来患者の診療最中だったか
ら、このあたりの廊下や室内に倒れている数はおびただしく、それ
が一様に着物を剥ぎとられ、皮をむしられ、切られ、土煙をかむっ
て灰色になっているのだから、まるでこの世のものとは思われぬ。
死んで動かぬ人の間をじりじりと這いにじり寄り、私の足首にしが
みついて「先生、助けて下さい。」と泣く。血を囁く手首を差し出
す。「お母さん、お母さん。」と泣き廻る女の子、子の名を呼びつ
づけてのたうちまわる母親、「出口はどこだ。」と怒鳴って走る大
男、「担架、担架。」と叫んでうろうろする学生、あたりはようや
く騒然となって来た。

 私達はそこでただちに応急手当を始めた。三角巾も繃帯も間もな
く使い果たし、こんどはシャツを切り裂いては創を巻いていった。
十人、二十人、処置を終れば後から後からと「助けて下さい。」と
叫んで新しい傷者が現われ、いつまでもきりがつかない。私は片手
で自分の創を押えておらねばならず仕事がしにくいが、つい患者の
創につられて手を離して手当をしていると、まるで水鉄砲で赤イン
クをとばすように私の創口から血を噴いて、横の壁といわず婦長さ
んの肩といわず赤く染めてしまう。こめかみの動脈を切られている
んだ。しかしこの動脈は小さいから、まああと三時間は私の身体も
もてるだろうと計算しながら、時々自分の脈の強さを確かめつつ、
患者の処置をつづける。

 友を探しに行った橋本君と椿山君とが帰ってきた。「いません、
運動場の畑へ行ったと思います。運動場へゆこうとしましたが、も
う途中は倒れ木と火と死骸とで通れません。基礎教室の建物はみん
な見えません。一面の火です。病院の中央は大火事で裏門との連絡
はつきません。負傷者の数は見当つきません。」こういう報告であ
る。山下、井上、浜、大柳、吉田、五人の看護婦の顔が次々目の前
に浮ぶ。死んだのだろうか、今息の絶えるところだろうか、重い傷
をうけてこの目の前の患者のようにのたうち廻っているのではなか
ろうか、それともなにかの蔭に無事に退避しているのかしら。生き
てさえいれば必ずここへ帰って来る。

 それにしてもこれは戦争の常識にない一大事である。予想だにさ
れなかった大規模な惨害である。恐らくは歴史的な事件に数えられ
るものに違いない。腰を据えてかからねばならぬ。私は撮影室にど
っかりあぐらをかいた。施先生と婦長さんとが私の創に薬をつけ、
ガーゼを押しこんで圧迫止血をしてくれ、その上から三角巾でぎり
ぎりと締めつけた。しかし動脈出血だから三角巾はみるみる真赤に
なり、頤(おとがい)のあたりからぽたりぽたりと血をたらす。

「みんなで器械をしらべておいで。」
 一同はまた私の周囲からさっと散って部屋部屋へ分かれて入った。
その間、私はじっと考えた。ここはまさしく血河の戦場と化した。
吾々は衛生隊であり、その活躍はこれからだ。断然踏み止まらねば
ならぬ。敵は更に引き続きこの爆弾を落すであろう。そうして一週
間以内に上陸戦闘を展開するであろう。浮足たったらおしまいだ。
混乱に陥ったら何も出来なくなってしまう。まず隊の集結、編成、
衛生材料の確保、食糧の調達、野営の準備、それが出来てから上下
左右の連絡、野戦病院の位置選定だ。いずれここは艦砲射撃の弾巣
になるだろう。患者は大急ぎで近郊の谷間へ集めねばならぬ。


[ 2005/10/19 16:33 ] [文芸]永井隆コレクション01〜長崎の鐘 | トラックバック(-) | コメント(-)

■ 永井隆コレクション01〜長崎の鐘 (7) ■ 

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■ 永井隆コレクション01〜長崎の鐘 (7) ■
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 一年の学生はしずかにノートをとっていた。まだ耳なれぬラテン
語の解剖学の講義をうけている自分が、何だかもう一人前の医者に
なったような気がして自分の書いた横文字を自ら誇りたげに見送り
ながら教授の言葉を追ってペンを走らせていた。かっと光り、どっ
と潰れた。教授の声がまだ途切れていなかった。頭を上げてあたり
を見るひまもなかった。教室にきちんと並んで坐ったままその位置
で重い屋根の下に埋められてしまったのである。級長藤本君は腰を
梁か何かで軽く挟まれている自分を見出した。しかしまっ暗だ。塵
と土煙とを吸いこんではむせて咳をした。机と机との底の狭い空間
でようやく我が身の自由をとりかえした。すぐ横でうんうん呻いて
いる。おういおういと呼ぶのもいる。しかし八十名の級友のうち声
を数えるといくらも生き残っていないらしい。そのうちにせまい木
材の隙間からすうと物の焼ける匂が流れこんで来た。やがて熱っぽ
い、いがらっばい煙が流れこんで来た。火が燃え始めたらしい。ま
ごまごできぬと焦り始めた。上へぬけ出そうと押してはみるが、梁
やら桁やら、橡やら、瓦やら土やら積み重なっていることとていっ
かな動きそうにもない。ぱちぱち近くで火の燃え上がる音がする。
焦眉の急とはまさにこの状態であったのか。押してみる、突いてみ
る、頭と肩と背とを当てて満身の力で伸びようとするが、びくとも
動かない。力学を考えてやってみる。重力の大きさをむなしく計算
してみる。がらくたのすきまから吸いとる空気は次第に熱くなって
ちろりちろり赤い焔の反射がもれる。突然、海ゆかばを歌いだした
者がある。せい一ぱい大声でゆっくり歌いつづけてゆく。藤本君は
全身の力を失い、そのままころりと転がって、友の最後の歌に耳を
すましていた。

 かえりみはせじ−歌は終った。「諸君、さよなら――僕は足から
燃えだした。」あと二分したら、僕も燃えだす。藤本君は運命を知
った。合掌してじっとしていると、父の顔が見えた。「じたばたす
るな。」と言った。

 母の笑顔がみえた。弟の正夫が浮んだ。正夫が僕の代りに医者に
なってくれるだろう。レントゲン室の仲間がひとりひとり思い出さ
れた。角帽をかむる日までレントゲン技術員として勉強していた教
室、ああ一しょに入学試験を受け同じく角帽の栄冠を得た親友蛸ち
ゃんはどうなったろう。レントゲン仲間で朝夕投げあっていた短い
言葉が次々と頭に浮んだ。

「あわてるな。」この狭いがらくたの空間に一切の自由を奪われ無
抵抗裡に燃やされ、炭化され、灰になろうとして何をあわてる必要
があろう。「縹緲」ここに於て肉体は寸尺の活動の余地を有しない
が精神は天地宇宙の間にひょうびょうと流れゆくのだ。あと一分の
不自由だ。肉の焼ける匂がする。若い肉体の燃焼する快い匂だ。僕
の匂もよいだろう。「一大事とは唯今のことなり」まさに然り。
「此亦放尿喫 飯脱糞之徒耳」藤本君は思わずくすりと笑った。
「どうしても問題が解けぬときはまるで反対を考えてみるんだ。」
試験勉強最中に施先生がよく教えた言葉。まるで反対のことを――
はて、そうだ。藤本君はもしやと思い床を撫でてみた。床板のつぎ
目に指先がかかった。力を入れて引いてみた。果せるかな、がたり
と剥げた。爆風が地面にあたり反射して下から床をあおったので釘
がゆるんでいたのである。うんと引き上げ指をしたにかけた、ばり
ばり快い音をたてて床板が離れ、救いの空気はひやりととびこんで
きた。二枚、三枚わけなく離れ、どすんと身体は床下の土にころが
り落ちた。

 細菌学教室の裏の窓をあけて今停車場から切符を買って帰った山
田先生と辻田君とが風をいれて休んでいた。二人はこれから東京の
伝染病研究所へ血清製造法を習いに出張するところだった。いよい
よ長崎龍城の日が近まりこんな方面にも急いで準備をせねばならぬ
仕事があった。男子が殆ど戦場に出ているので、この二人の若い女
科学者はこれから大きな責任を負わされることになっていたのだ。
テニスコートも夏草に荒れてスポーツをたのしむなどというのどか
さは何年か前に忘れられ、すべては戦争一本であった。コートの向
うにすくすくとのびた楠と松の木立があり、それをすかして今は増
産の藷畑と変った運動場があり、その上に赤い大きな天主堂がそび
えている。テニスコートをよこぎりながらこちらへ手をふる二人の
もんぺ姿がある。レントゲン科の看護婦の浜さんと大柳さんらしか
った。以前にレントゲン科に技手をしていた辻田君の顔を窓に見出
して合図をしたものだった。辻田君はっと立ってハンカチを振った。
運動場の藷畑にはレントゲン科の山下さんや吉田さんや井上さんが
しゃがんで草をとっている。浦上の丘の段々畑には空襲のきれ間の
しばしを利用して草とりをしている農夫の姿があちこちに点々とみ
える。天主堂へは信者が引き続き参詣している。路にもちらちら日
傘が光る。「長崎はいつ見ても綺麗ですねえ。」

「二ヵ月あとで私達が東京から帰ってきた時やっぱりこのままでし
ょうか?」
「私はなんだか長崎がなくなりそうな気がする。」「私はなんだか
長崎だけは残りそうな気がする。」そこへ「ピカドン」が来た。

 山田先生はやっとのことで床下へ出て助かった。隣に埋った辻田
君の「苦しい、苦しい。」とただ二言いったきりで息絶えたのが夢
のようである。細菌教室は忽ち一塊の火となった。脱出したのは山
田先生独りだった。内藤教授以下全員即死したものと思われる。

 外に這い出してみるとうす暗く風がそうそうと空に鳴っていた。
見晴らしがきくと思ったら松と楠の木立は根こそぎ払われ、あたり
の校舎講堂はみな潰れていた。向うの天主堂は高さ五十米もあった
鐘塔をはじめとして全体が三分の一の高さぐらいに吹き払われ、羅
馬の廃墟さながらである。石垣に逆さに大の字にひっかかっている
人、道路に点々倒れている人、畑にもみわたす限り幾人と数えきれ
ぬ死人である。運動場にいた看護婦さん達は? と見れば、離れば
なれに吹き倒され、びくとも動かない。戸外にいた人は即死だった。
山田先生はあまり大きな創を受けてはいなかったにも拘らず、不思
議に身体中が変調をきたし、四、五歩行ったらくたくたと膝をつい
た。そしてもうどうにでもなれとあきらめて、そこのトタンの上に
ごろりとねころんだ。傍に古いドイツ語の細菌学教科書が落ちてい
た。もうこんな学問も駄目だ、とそう思って、その本を枕にしいた。
そこにそのまま不安な夢と苦悶の現(うつつ)との境をさまよいつ
つ、救いの現われるのをむなしく待つことにした。


[ 2005/10/12 12:21 ] [文芸]永井隆コレクション01〜長崎の鐘 | トラックバック(-) | コメント(-)

■ 永井隆コレクション01〜長崎の鐘 (6) ■ 

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■ 永井隆コレクション01〜長崎の鐘 (6) ■
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「機械をとりだそう。」史朗がいった。
「負傷者の手当をしよう。」と長老がいう。
「入院患者を避難させましょう。」と椿山がいう。
 烙はみるみる黒煙をあげて大火になる勢いをみせる。
「部長先生の指揮をうけましょう。」と久松婦長が言った。
 そこへ橋本君が現われた。
「部長先生が生き埋め。」みな顔をみあわせる。
「まあ、あんげん太かとば、どんげんするえ?」と小さい椿山が洩ら
した。
「大丈夫、よかよか。」

 長老がそういいざま走りだした。橋本のあとから五人は木を越え机
を越え、手をひき、ひかれつつ撮影室へと駆けあがる。正常の通路は
潰れ、塞がれ、通れないので、窓をのりこえ、パイプにつかまり、廻
り廻って、おやじ救出に走ってゆく。薬局の高窓をのりこえるには人
梯子をつくらねばならなかった。長老がガス・メーターを掴んで台に
なり、その上に史朗君が重なり、その膝、背、肩と伝って、婦長さん
も橋本君も椿山君も、よじ登って高窓を越えた。それから史朗がとび
上がり、最後にみんなで長老の長い手長海老みたいな両手をひっぱっ
たら「おっこらしょ。」といつもの癖の掛声を出してとび上がって来
た。

 現像室では施先生が肺のレントゲン写真を丁度現像タンクから引き
出すところだった。裏山に立っている対空監視の学生が「怪しい飛行
機が頭上に侵入しまあす。退避。退避。」と突然怒鳴るのをきいた。
妙に疳高い爆音をその次にきいた。急降下爆撃だと考えてその場に伏
せかけたが、写真が駄目になってはならぬと水洗いして定着タンクに
しずかに入れた。それから伏せようとするのとどかんと潰されたのと
が同時だった。気がついた時にはぴっしゃり胸を何か材木で挟まれて
床にのびていた。どうにかこうにか動いてみると、腰が自由になり、
両腕がわがものとなり、それを使って順々に自分の上に積み重なった
木材をとりよけて、抜け出すことが出来た。定着タンクの中の写真は
どうなったろうと見廻すが、眼鏡がとんでしまって、あたり一切はピ
ントがぼけている。傍に一しょに仕事をしていた森内君はどうしたろ
う。何べんも呼んでみるが返事がない。そこらの木材の下をさがして
も手もなく足もみえない。うまく這い出したものらしい。がらくたの
山を這い越して廊下に出てみてびっくりした。まるで知らぬ家へはじ
めて来たようだ。何もかも様子が変っている。眼鏡のなくなったせい
かしらと、二度も三度も眼をこすっては見廻した。

 これまでの話はコンクリート建築物の中にいて放射線の直射を受け
なかった幸運の仲間に就てである。屋外にいた者はどうであったろう
か。清木先生は薬学専門部の裏の防空壕を学生と一しょにせっせと掘
っていた。先生が掘り役で学生はその土を外に運び出していた。丁度
その瞬間、壕の外へ出ていた者は死のくじを引き、中へ入っていた者
が生のくじに当ろうとは、誰が予知していたであろう。みんなパンツ
一枚の坑夫姿でせっせと土に挑んでいた。ここは爆心点から四百米。

 ぴかっと壕の奥の土が輝いた。どーと鳴った。壕の入口に笊(ざる)
をもっていた富田君がぷーっと壕の奥へ吹きこまれ、そこにしゃがん
で鍬を振っている清木先生の背にどしんとぶつかった。「何だッ。何
事だッ!」清木先生は怒ったように叫んで振りむいた。富田君の後か
ら木片や布や瓦ががちゃがちゃと飛びこんでくる。大きな角材が先生
の背中にどしんと当り、先生はそのままばったり泥の上に倒れた。

 幾分か経過したらしい。焔と煙とが渦巻いている壕の中に倒れてい
る自分を清木先生ははっと意識した。熱い空気がごうごうと壕の中へ
吹きこむ。先生はよろめく足をふみしめ、死にもの狂いでその焔を突
破した。一気に壕口に届いて、やれやれ助かったと、眼をみはって、
口をあんぐりあけたまま、さっきから握りしめていた鍬の、手から落
ちるのも知らず、その場に呆然と立ちすくんでしまった。

 薬学専門部の大きな幾棟かの校舎が無い! 生化学の教室が無い! 
薬理教室も無い! 柵もない! 柵の外の民家は? これも無い! 
何もかも無くなってしまって一面の火の林!

 原子を専攻していた理学博士の清木先生もこの瞬間に、これは原子
爆弾だ、とは気がつかなかった。まさか米国の科学陣が今日ここまで
成功していようとは想像していなかったのである。

 学生は? 清木先生は足許へ眼を転じ、いきなり氷水をぶっかけら
れたかのように、全身の凍るのを感じた。
 この物体のようにころがされているのが私の学生なのか? いや、
私はさっき壕の中で背中をやられたっきり、まだ意識を回復していな
いのだ。悪夢だ、悪夢だ。こんな凄惨な事実がたとい戦争とはいえあ
り得る筈がない。先生は腿をつねってみた。自分の脈を握ってみた。
どうしても自分の肉体は目醒めているらしかった。これが悪夢でない
としたら一体何だろう。悪夢以上に悪い夢に違いない。

 先生はまず足許の異変した肉体にとびついた。「おい、おい。」返
事がない。両肩に両手をかけて引き起そうとしたら、皮がぺろりと水
蜜桃のようにはげた。岡本君は死んでいた。その隣のが「うーん。」
と呻いて反転した。「村山君、村山君、しつかりしろ。」先生はべろ
べろに皮のはげた学生を膝に抱いた。「先生、ああ、先生、」そうい
ったきり村山君ががくりとなった。「あーあッ。」先生は深い溜息を
つき村山君の冷えゆく裸身を土の上に横たえ、合掌をして、次の荒木
君の上にしゃがんだ。荒木君は南瓜のようにぶくぶくに膨れ上がり、
ところどころ皮のはげた顔の中に、細い白い眼をみひらいて、「先生、
やられました。」と静かにいった。「もう駄目らしいです。お世話に
なりました。」

 耳と鼻から血の流れ出ているのがある。頭蓋底をやられて即死らし
い。よほど強く地面に叩きつけられたのだろう。口から血泡を吹いて
いるのもある。富田君がその間を水をのませ、言葉をかけつつ敏捷に
立ち廻っている。自分の力で動ける者は独りもいない。まだ呻いてい
るからこの学生の次に行って診てやろうと思っているうち、急に黙っ
たと思ってひょいと見ると、目玉をもう白くひっくり返してしまう。
こうして二十人ばかり次々と息絶えていった。二人ではとても救護は
出来ぬ。誰か加勢をしてくれまいかと清木先生は「おーい、誰かきて
くれ!」と北をむいて叫び、東をむいて叫び、西にむかって呼んでみ
た。じっと耳をすましていると、大気は未だ安定を回復していないも
のとみえて、方向の定まらぬ突風が時の間をおいてごーうと吹き廻り、
その風の音にまじって、そこらのおし潰された屋根の下から、声を限
りに助けを求めているのがきこえる。「助けて下さーい。」「苦しい
よう。」「誰か来てー。」「熱いよう、焼けるよう、焼けるよう、氷
かけてー。」「お母さーん。」
「お母さーん!」

 先生はめまいを感じてまた倒れた。暫くして目をあけてみると、空
いちめん固体のように濃厚な魔雲に埋められ、太陽は光を失い、赤ち
ゃけた円板にみえる。あたりは日暮のようにうす暗く、ひやりと寒か
った。耳をすましてきくと、助けを求める声はいくつかへって、お母
さんを呼ぶ幼児は、もう焼け死んだらしかった。

[ 2005/10/12 12:20 ] [文芸]永井隆コレクション01〜長崎の鐘 | トラックバック(-) | コメント(-)

■ 永井隆コレクション01〜長崎の鐘 (5) ■ 

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■ 永井隆コレクション01〜長崎の鐘 (5) ■
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 玄関車寄に群がっていた人々は? と見おろす広場は所狭いまで
に大小の植木がなぎ倒され、それにまざって幾人とも数えきれぬ裸
形の死人。橋本君は思わず両手で目をおおった。地獄だ、地獄だ。
呻き声ひとつたてるものもなく全然死後の世界である。目を押さえ
ているうちにすっかり暗くなってしまった。目をあけて首を 廻し
てみるけれども、物音ひとつせず、糸ひとすじもみえぬ真の闇。こ
の世の中にただひとり生き残ったと思ったとたん、背筋がずーんと
して足がすくんでしまった。死神の爪はやがて私の頸筋をつかまえ
るだろう。ふるさとの家がぽうとみえた。母の顔がみえた。橋本君
はわっと声をあげて泣きだそうとした。まだ十七才の女の子だった。
と、その時「おーい、おーい」と呼ぶ声がきこえてきた。すぐ近く
の足許らしくもあり、なん枚か壁を隔てた向うらしくもある。「おー
い、おーい」また呼んだ。部長先生の声だ。部長先生が生きている。

 先生と二人生き残っているのなら、あれだけの玄関の死人の処置
もやれるに違いない。橋本君はたちまち、べそをかく小娘から勇敢
な看護婦にたちかえった。そうして声をたよりに隣の室へゆこうと
すると、レントゲン撮影台らしい物やら電流コードやら、闇の中の
ゆくてを阻んで足を運ぶことができない。スコップのおいてあった
隅へ手さぐりで行ってみると、どこへ飛ばされたのかなくなってい
て、その代りにメガホンが手に触れた。階下の透視室には鍬もあり、
婦長さんたちもいるのを思い出し、これはみんなの加勢を受ける方
がよいと判断して、撮影室を出て行った。毎晩灯火管制で歩き慣れ
た廊下ではあったが、二、三歩ゆくと、ぐにゃりとしたものにつま
ずいた。しゃがんで撫でてみると人間。べっとりと血らしいものが
掌についた。腕をつたわって手首を握ってみると、脈はない。可哀
そうに、橋本君は合掌をして、そこからまた二、三歩ゆくと、また
も倒れている人につまずいた。髪がぬらりと手首にねばりつく。ま
だあたりはまっくらだ。この闇の、この私のまわりに一体なん人死
んでいるのだろう。橋本君は脈をさぐりながらみえぬ目を見開いて、
あたりを見廻した。

 突然ぽうと赤くなった。窓の外に火が燃えだしたのだった。ちろ
ちろと焔は次第に大きくなる。そのうす赤い火に照らしだされた目
の前の光景は! 橋本君は思わず死人の脈を手離して突っ立った。
広い病院の廊下に赤い逆光線をうけて、転がっている人の肉体。う
つ伏し、横ざま、あおむけ、膝を曲げているのもあり、虚空を掴ん
でいるのもあり、立とうともがいているのもある。橋本君はこれは
独力では手がつかぬ、まず救護隊が集まり、組織的な団体活動でな
ければだめだと悟った。それではとにかく皆を部長先生の埋ってい
る処へ集めよう。ご免ね、ご免ね、とことわりをいいながら死人を
とびこえて階段を、透視室へと下って行った。

 透視室の連中はレントゲン透視台を組み立てている最中だった。
びゅうんと奇妙に疳高い爆音をきいた。看護婦生徒の椿山が「あれ
なんでしょう?」という。「ありゃB29の爆音たい。」せっせと
ペンチを動かしながら 技手の史朗がいう。「爆弾おとしたぜ。」
このあいだの爆撃で腿をやられた経験のある長老技手がいう。「か
くれよか。」「うん。」「婦長さん、退避、退避。」三人は大きな
卓の下へもぐりこんだ。ぴかっどん、と来た。「また落ちたばい。」
史朗の声もがちゃがちゃ室中暴れ廻る爆風にもみ消されてしまう。
みんなじっとして鎮まるのを待った。椿山が呼吸をしない。「おい、
やられたかい?」「いや、あなたは?」「どこも痛くねえ。」「おー
い、婦長さあん!」大声で呼んでみる。「はーい。」とすぐ隣の部
屋からいつもの通り愛嬌のいい返事がかえって来た。「ちょっと待
って下さいよ。何やかや私の上に乗っかってるんですもの。」

 そのうちに汽車がトンネルにはいる時のように、あたりはごうご
う唸っていながら、真黒になってしまった。向かいあっている椿山
の白い顔が忽ちなくなった。
「これは一体なんだい?」長老の声。
「新型爆弾だぞ、例の広島の。」史朗の声。
「いや、太陽が爆発したんじゃないかな。」長老。
「うん、そうかもしれん。急に気温がさがったごたる。」史朗が考
え考えいう。
「太陽が爆発したら、世界はどうなります?」
 椿山看護婦がおろおろ声でたずねた。
「地球も終りさ。」長老がぼっさり答えた。みんな黙って待ってい
るが、やっぱり明るくならない。一分たった。闇の中で時計の秒を
刻む音が印象深い。

「それで、ひるめしはどうする?」史朗。
「さっき食っちまったさ。お前持っとるか?」
 長老がこの世の名残に一口食いたそうにいう。
「うん。死なぬうちに分けて食おうや。」
 すると、汽車がトンネルを出る時のように、あたりがしずかにな
りながらすうと明るくなって、長老の白い歯が見え、史朗の長い鼻
が見え、椿山のちっちゃいえくぼも見えて来て、「ああ、太陽は大
丈夫だったんだがなあ。」と史朗がいい、「しかし昼飯は分けてお
くれよ。」と長老がいって、三人は窮屈な卓の下から、硝子の粉、
器械の断片、椅子の残骸、電線の網の中へ這いだしてきた。

「いったいどこへ落ちたんだろう? これだけ壊すにはこの室に命
中しなきゃならん筈だが、天井に孔もあいとらん。」
「爆弾の落下音をきいたかい。」
「いや聞かなかった。」
「それじゃ――空中爆雷かしら?」
「とにかく、凄い奴だぜ、こいつは。」
 そこへ隣の室から久松婦長さんが手まりみたいな姿を現わした。
乱れた髪の毛を両手でなでつけながら「みんな大丈夫?」ときいた。
その後から看護婦生徒の一年生がとび出して婦長の腰にしがみつい
て、泣きはじめた。

「馬鹿さんだね、あんた。生きとるじゃないの。」
 一年生がしゃくり上げた。友達がすぐ傍で死んだらしい。
「さあさ、防空頭巾をかむって、繃帯嚢をさがしていらっしゃい。」
 久松婦長さんは、しゅうしゅうと水を噴いている水道管の所へい
って両手を丁寧に洗い、顔を洗い、うがいをした。「何だかガスを
吸ったような気がする。」といいいい、全く肺の奥まで洗いたいよ
うな勢いで、四回も五回もうがいをした。

「椿山さんも来て手を洗いなさいよ。そんな土だらけの汚ない手で
ガーゼを扱ったら、創がすぐ化膿します。友清さん、あんたも顔と
手を洗いなさい。施さん、さっさと用意して下さいね。負傷者はだ
いぶん多いようです。」婦長さんが手を拭き拭き言った。

 友清史朗君は「はあ。」と答え、施長老君は「おい。」と答えて、
すぐに準備にとりかかった。
 ぱちぱち音がきこえる。窓際へとんでいった椿山君が「火事です、
火事です。」と叫んだ。五人はそこに転がっていたバケツを拾うな
り水槽へ我おくれじと駆けだした。旧レントゲン教室の疎開跡のま
だ材木を片附けていない広場は、まだ焔のたけは低いけれども一面
火の海である。五人はかねて防空演習でやりつけた通り一方の隅か
らバケツの水をぶっかけ始めた。然し火の手は此処ばかりではなか
った。病院の廊下はすっかり吹きとんで跡方もなく、食堂もつぶれ
て一面に火を噴いている。残っているのはぽつんぽつんとコンクリ
ートの病棟ばかり、木造の建物はすべてなくなって、その代りに焔
がたっている。しばらく水をかけていたが、消える面積よりは燃え
ひろがる方が速い。とてもバケツ注水では間にあわぬという見透し
がついた。

[ 2005/10/12 11:59 ] [文芸]永井隆コレクション01〜長崎の鐘 | トラックバック(-) | コメント(-)

■永井隆コレクション01〜長崎の鐘 (4) 

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■ 永井隆コレクション01〜長崎の鐘 (4) ■
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 大山という部落は長崎港の南、八郎岳の山腹にあって浦上から八
粁離れている。ここから望むと浦上の盆地は、長崎港のさらに向う
にうっすら霞んでみえる。加藤君は牛をつれて草原にでていた。ぴ
かりを見たのは、緑のなかに草苺の光るのをみつけて一つ二つ頬ば
ったところだった。びっくりして牛も首をあげた。浦上の空に白い、
濃い濃い綿のような雲が生まれ、ぐいぐいと大きくなる。その色は
ちょうど提灯を綿につつんだようで、外の方は白かったが、中には
燃える赤い火を含んでいた。その白い雲の中にはその他にちかちか
ちかちかと、美しい放電がひっきりなしに起っていた。その小さな
稲妻の色は赤や黄や紫やさまざまの美しさだった。

 この新しい雲は饅頭形になり、やがてそのまま上へ上へと昇って、
松茸みたいな形になった。そのころ、今度はその白雲の真下の浦上
の谷一面から黒い土煙がむくむくと吸い上げられて昇った。上の松
茸雲は高く高く青空高く上り、その上で崩れて東に向かって流れは
じめた。下の土煙も山より高く昇って、その一部は下へまた散り落
ちはじめ、一部は東の方へ流れた。どこもよく晴れて太陽の光は山
と海とを照らしていたが、この雲の真下の浦上だけは大きな雲の蔭
となり、まっ黒にみえた。やがて、どんととどろいて、着物があお
られ、木の葉が吹き飛ばされたが、爆風もここまで来るとよほど弱
くなっていて、牛があばれだすまでではなかった。しかし加藤君も
また、もう一発の爆弾がすぐ近くに落ちたに違いないと思った。

 高見さんは牛をひいて木場へ帰ろうと浦上から二粁の踊瀬の道を
あるいていて、「ぴか」にやられたのであった。ぴかと光った時に、
火鉢にあたるほどの熱さを感じたのだったが、牛も自分も熱傷を受
けた。そのあとへ、しゅうと唸って火の玉の雨が降ってきた。その
一つは足にあたった。そこで白煙をあげて消えたが、パラフィン蝋
燭を吹き消した後のような匂がした。この火の玉であちらこちらに
火事が起った。


  三、爆撃直後の情景


 大学は爆弾破裂点から二百米ないし七百米の範囲に建物を並べて
いた。まず爆心圏内にあるとみてよい。基礎医学教室は爆弾にも近
かったし、木造だったから瞬間に押し潰され、吹き飛ばされ、燃や
されて、教授も学生もみな死んだ。臨床医学教室の方は少し遠かっ
たのとコンクリート建だったために、運よく生き残った者もいくら
かはいた。

 時計は十一時を少し過ぎていた。病院本館外来診察室の二階の自
分の室で、私は学生の外来患者診察の指導をすべく、レントゲン・
フィルムをより分けていた。目の前がぴかっと閃いた。全く青天の
へきれきであった。爆弾が玄関に落ちた! 私はすぐ伏せようとし
た。その時すでに窓はすぽんと破られ、猛烈な爆風が私の体をふわ
りと宙にふきとばした。私は大きく目を見開いたまま飛ばされてい
った。窓硝子の破片が嵐にまかれた木の葉みたいにおそいかかる。
切られるわいと見ているうちにちゃりちゃりと右半身が切られてし
まった。右の眼の上と耳のあたりが特別大創らしく、生温かい血が
噴いては頸へ流れ伝わる。痛くはない。目にみえぬ大きな拳骨が室
中を暴れ廻る。寝台も、椅子も、戸棚も、鉄兜も、靴も服もなにも
かも叩き壊され、投げ飛ばされ、掻き廻され、がらがらと音をたて
て、床に転がされている私の身体の上に積み重なってくる。挨っぽ
い風がいきなり鼻の奥へ突っ込んできて、息がつまる。私は目をか
っと見開いてやはり窓をみていた。外はみるみるうす暗くなってゆ
く。ぞうぞうと潮鳴りの如く、ごうごうと嵐の如く空気はいちめん
に騒ぎ廻り、板切れ、着物、トタン屋根、いろんな物が灰色の空中
をぐるぐる舞っている。あたりはやがてひいやりと野分ふく秋の末
のように、不思議な索莫さに閉ざされて来た。これは唯ごとではな
いらしい。

 私は爆弾、少なくとも一トン位の大型が、病院の玄関附近に落ち
たとさらに判断を新たにした。怪我人は約百名だ。これは何処へ送
って、どう処置するか、とにかく教室員を集めねばならぬ。その教
室員も恐らく半数はやられているだろう。とにかくこの埋没から抜
け出さねばと、膝を動かし、腰を突っ張って苦心しているうち、す
うと暗くなって、両眼ともすっかり見えなくなってしまったのであ
る。これには弱った。はじめは眼のあたりに怪我をしているのだか
ら、眼底附近に出血でもしたのかなと思ったが、眼玉を動かしてみ
ると動く。

 盲になったのではないときまったら、はじめて慄然とした。すっ
かりこの建物が倒壊して生き埋めになったに違いない。生き埋めと
はまた張合いのない、だらしない死に方を与えられたものだ。とに
かく出来るだけやってみようと、物の破片の底でごそりもそりと命
がけのもがきをつづける。しかし、せんべい焼に挟まれたせんべい
のようにかくもぴっしゃり圧しひしゃがれていると、身体のどこを
支点にどう動こうかと考えることもできない。顔もうっかり動かさ
れない、そこら一面硝子破片のペーパーだ。その上真暗闇で、自分
の上にどんな物がどんなふうに平衡を保って乗っているのやらわか
らない。ちょっと右肩を動かしたら、なんだか知らぬが、がらがら
と崩れ落ちた。私は「おーい、おーい」と呼んでみた。その声は全
くわれながら情けない響を闇の中へつたえて行った。

 隣のレントゲン撮影室には橋本看護婦がいた。運よく図書棚の間
にいたのでかすり創ひとつ負わなかった。万物が魔法によって生き
物となったかのように、がらがらと物凄く跳ね廻る恐しい時間は、
壁によりそってじっと隠れているうちに、十秒二十秒と経過して、
あたり一面埃と土煙とが咽喉をふさぐほどに立ちこめてはいたが、
大きな品物は大体また床の上か地の上へ落ちついたらしかった。橋
本君はさて救護だと崩れた図書棚の裏から這いだして、あっとたま
げてしまった。なにもかも滅茶苦茶だ。がらくたを踏みこえ窓へ顔
をだしてみて、さらにどきっと胸を衝かれた。これは一体どうした
というのだ。つい今の今先までこの窓の下に紫の浪と連なっていた
坂本町、岩川町、浜口町はどこへ消えたのか? 白く輝く煙をあげ
ていた工場はないではないか? あの湧き上がる青葉に埋まってい
た稲佐山は赤ちゃけた岩山と変っているではないか? 夏の緑とい
う緑は木の葉草の菓一枚残らず姿を消しているではないか? ああ
地球は裸になってしまった!




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■ ノート ■
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 このコーナーは、本文の中にでてくるわからない言葉や、難しい
言葉の意味を解説するコーナーです。
 ときには図解もします。そのときはHP上にジャンプすれば図解説
が見られるようにします。

 特にありません。

[ 2005/10/12 11:57 ] [文芸]永井隆コレクション01〜長崎の鐘 | トラックバック(-) | コメント(-)

■永井隆コレクション01〜長崎の鐘 (3)  

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■ 永井隆コレクション01〜長崎の鐘 (3) ■
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 この日は防空当番教官にあたっていた私が、病院の玄関から入って
大廊下を裏門まで見廻る。どの病室の入口にも甲斐甲斐しく服装を
ととのえた看護婦、学生が身構えしている。

 バケツはみんな水で一ぱいだ。水道ホースも延びている。火叩き、
鳶口、スコップ、鍬、いざといえば焼夷弾ぐらいはとばかり揃っている。
入院患者は防空壕の中へ静かに運ばれてゆく。ラジウム室のまえで
医専三年の上野君にあう。この男はなかなか勇敢だ。この間の空襲で、
婦人科から発火した時は隣の皮膚科の屋上に独りいて、監視の責任を
果したのだった。私らが婦人科の焔にバケツをもって駆けつけた時、
まだ敵機は続いて急降下爆撃をしていたが、上野はその弾のおちて
くる中で「おーい、敵機頭上通過、大丈夫、でて来い、燃えよっぞ。」
とか「また来たぞ、落したぞ、退避、危いぞ。」とか、いちいち叫んで、
指導した。

「がんばれよ。」と私は礼をかえしながらいった。上野は、はにかんで
頭をかいた。
「このあいだは、お袋から叱られましたたい。人様の目につく事をして
好か気になるもんじゃなか。もう子供じゃなかけんと。」

 裏門には手押ポンプ隊がたむろしていた。すべては焼夷弾と爆弾とに
対してはまずまず大丈夫であった。私は満足してこんどは病棟の裏側を
通ってみた。このあいだの爆撃にやられた外科、婦人科、耳鼻科のあとは、
人の体の怪我よりもむごたらしかった。その傍には、ここにもまた爽竹桃が
血の色に咲いていて、ひっそりと石炭酸が匂っている。私はふっと不吉な
予感を覚えた。

 警報解除のサイレンが、身体じゅうの疑いを解いてくれるためのように
鳴りわたった。教室へ帰ってくると、皆ががやがやいいながら鉄兜の紐を
ほどくところであった。情報係の井上看護婦が、くりっとした眼をなおさら
くるくるさせて、ちょっと小首を傾けながら「九州管内敵磯なし」とラジオの
いった通りを報告した。赤らんだ頬に軽く汗が浮いて、髪の毛が三すじ
くっついている。

「直ちに授業はじめ!」本部伝令がまた叫んで通った。学生はそれぞれ教室に入り、
大学は再びひっそりした 真理探求の象牙の塔となった。病院の臨床学科の方は
患者が受付に押しよせて、予診をとる学生の白衣がその間を縫うて動いている。
私の教室と廊下を隔てた向い側の内科では、学長角尾教授の臨床講義の快い
口調が扉からもれてきている。


  二、原子爆撃


 地本さんは川平岳の頂で草を刈っていた。ここからは浦上が西南三粁(キロメートル)の
やや斜め下に見おろされる。浦上の美しい町と丘の上に真夏の太陽はこともなげに
輝いている。地本さんは突然妙な微かな爆音を耳にききとめた。鎌をもったまま
腰をのばして上を仰いだ。空は大体晴れていたが丁度頭の上には掌の形をした
大きい雲がひとつ浮いている。爆音はその雲の上だ。暫くみているとでた。
B29だ。てのひら雲の中指にあたるその尖端から、ポツリ銀色に光る小さな機影、
高度八千米(メートル)くらいかなあと思ってみていたら、あっ落した。黒い
一つの細長いもの。爆弾、爆弾、地本さんはそのままそこへひれ伏した。
五秒、十秒、二十秒、一分、時間は息をつめているうちに、だいぶん経過した。

 ぴかり、いきなり光った。大した明るさだった。音は何もしない。地本さんは
こわごわ首をもたげた。やった。浦上だ。浦上の天主堂の上あたりについ今まで
無かった大きな白煙の塊が浮んでいて、それがぐんぐん膨脹する。それにもまして
地本さんが胆をつぶしたことには、その白煙の下の浦上の丘を山原をこちらへ向けて
猛烈な勢いで寄せてくる一つの浪があるのだ。丘の上の家といわず、山原の木と
いわず、ありとあらゆるものを将棋倒しに押し倒し、粉砕し、吹き飛ばしつつ、
あ、あ、あっという間にはや目の前の小山の上の林を薙ぎ倒し、この川平岳の
山腹を駆け上ってくる。これはなんだ。まるで目にみえぬ大きなローラーが
地ならしをしてころがって来るとしか思われない。今度こそは潰されると
地本さんは両手を合せ、神様神様と祈りながらまたも地面に顔をおしつけた。
ががが――とすさまじい響に耳が鳴ったのと、ひれ伏したままの恰好で
ふわりと吹き飛ばされたのとが同時だった。五米ばかり離れた畑の石垣に
いやというほど叩きつけられ、地本さんは目をあけて見廻した。
あたりの立木がみんな目通りの高さからぽきぽき折り倒され、木といわず
草といわず、葉はみんなどこへ消えたのやら――さむざむと松脂が匂うばかり。

 古江さんは道の尾から浦上へ帰る途であった。ちょうど兵器工場の前を
自転車で走っているとき、妙な爆音をきいたような気がした。ひょいと
頭をあげたら、松山町の上あたり大体稲佐山の高さぐらいの青空に一点の
赤い火の玉をみた。目を射るほどの光輝はなく、ストロンチウムを大きな
提灯の中で燃やしているような真赤な火の玉だった。それがすーっと地面に
近づく。なんだろうと眼鏡に片手をかけて見直す瞬間、すぐ目の前に
マグネシウムを爆発させたと思われるばかりの閃光が起り、身体が宙に浮いた。
……水田の中に、これもまた吹き飛ばされた自転車の下敷となっている
自分に古江さんが気づいたのは、何時間か後であり、一方の目はすっかり
盲になっているのを知った。

 浦上から七粁はなれた小ヶ倉国民学校の職員室で田川先生は防空日誌に
今朝の警報記事を書きこんでいたが、ちょっと顔をあげて窓の外へ目を休めた。
目の前に小さな山裾があってその上に長崎港の空が青かった。その青空が
瞬間さっと輝いたのである。その光は鋭く眼を射た。真夏の真昼間の太陽の
明るさがその次の瞬間にひどく暗いものに感ぜられたのだったからこの光度は
太陽のなん倍かであったに違いない。昼間に照明弾とはこれ如何とつぶやいて
田川先生は腰を浮かしたが突然異様な物を認めた。「あれ、あれ、あれ、
何だろう。」田川先生の叫びに職員室じゅうの先生がたは窓へ走り寄った。
長崎の浦上あたりの上空に一点の白雲が現われ、それが横の方へも上の方へ
も物凄い勢いでむくむくむくと膨脹してゆくではないか。「なんだ、なんだ。」と
騒いでいるうちに直径一粁以上のふくれた饅頭ができた。そのとき、だあーんと
爆風が到達し、職員室は震駭し、皆はばらばらと硝子片を引きかむった。

「爆弾落下、校舎に命中、退避。」田川先生はこう叫んでそのまま裏山の
防空壕へとびこんでしまった。そして、ちょうどこの時刻に浦上の
自宅では妻と子供たちが自分の名を呼びながら息絶えつつあることを
神ならぬ身の知る由もなく、田川先生ほぽつねんと冷たい土の中に坐っていた。




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■ ノート ■
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 今号は特にありません。


[ 2005/10/12 11:56 ] [文芸]永井隆コレクション01〜長崎の鐘 | トラックバック(-) | コメント(-)

永■ 永井隆コレクション01〜長崎の鐘 (2) ■ 

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■ 永井隆コレクション01〜長崎の鐘 (2) ■
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  一、その直前


 昭和二十年八月九日の太陽が、いつもの通り平凡に金比羅山から
顔を出し、美しい浦上は、その最後の朝を迎えたのであった。川沿いの
平地を埋める各種兵器工場の煙突は白煙を吐き、街道をはさむ商店街の
いらかは紫の浪とつらなり、丘の住宅地は家族のまどいを知らす朝餉の
煙をあげ、山腹の段々畑はよく茂った藷の上に露をかがやかせている。
東洋一の天主堂では、白いベールをかむった信者の群が、人の世の罪を
懺悔していた。

 長崎医科大学は今日も八時からきちんと講義を始めた。国民義勇軍の
命令の、かつ戦いかつ学ぶという方針のもとに、どの学級も研究室も病舎も、
それぞれ専門の任務をもった医療救護隊に改編され、防空服に身を固め、
救護材料を腰につけた職員、学徒が、講義に、研究に、治療に従事している
のだった。いざという時にはすぐさま配置について空襲傷者の収容に当る
ことになっており、事実これまでなん回もそうした経験がある。殊に
つい一週間まえ大学が被爆した時など、学生には三名の即死、十数名の
負傷者を出したけれども、学生、看護婦の勇敢な活動によって、入院外来
患者には一人の犠牲者も出さなかったほどである。この大学はもう
戦(いくさ)になれていた。

 警戒警報が鳴りわたった。病院の大廊下へ講堂から学生の群れが流れだし、
幾組かのかたまりになってそれぞれの持場へ散っていった。本部伝令が
いちはやくメガホンで情報を叫びながら廊下を走り去った。相変らず
今日も南九州に大規模な空襲があるちしい。引きつづいて空襲警報が
鳴りだした。空を仰ぐと澄みきった朝空にちかちか目を射る高層雲が光り、
どうやら敵機の来そうな気配がする。目にみえぬ音波がうす気味わるく、
後からあとからあちこちのサイレンが唸り出す。もう判ってるよ、
そんな不吉な音はもう真平だと耳を押えたくなるまで唸っては休み、
唸っては休む。これは少なくとも勇気を振いおこす音ではない。

 さるすべりの花が真赤だ。爽竹桃の花も真赤だ。カンナはまったく
血の色だ。病院の玄関を待機所にさだめられてある担架隊の医専一年生達が、
この赤い花の蔭の防空壕にひそんで、いざという時を待ちかまえている。
「一体全体戦況はどうなんだろう。」鹿児島中学から来たのがいう。
「俺が同級生もずいぶん沢山予科練でいっとるばって。」
「友軍機はどないしとるんやろ。」大阪弁が壕のなかから聞こえる。
「つまらへんな。こんなこっちゃ、なんぼう頑張ってもあかんで。」

 誰も返事をしない。この大阪の考えていることにうすうす気づいて
いないでもないのだが、しかし祖国日本はいま生死の関頭に立って
いるのではないか。戦争は勝つために始めたに違いない。まさか負ける
つもりで政府が、こんな悲劇の幕を開けたのではなかろう。しかし
サイパン失陥いらい大本営発表の用語に、なにか臭い陰影を帯びている
ことが、敏感な学生にいつとはなく、ある不安を起こさせていたのは
事実である。

「おい、級長、どう思う。この戦争はどうなる。」大阪弁の男が壕の
せまい口から赤い顔をだした。ロイド眼鏡をかけている、なるほど
これは蛸壺だ。
 級長藤本はさっきから青桐の下に腕組をしたまま突っ立って、
じいっと空を睨みつづけていた。小柄ながら胆のすわった男で、
鉄兜から男巻脚絆のきりりとしまった脚の先まで隙もない厳重な身固め、
これまでなん回となく血の中から負傷者を担ぎだした体験は、
よく級友の輿望をあつめて、この小男が先頭きってとびこむ煙の中へ、
級友は一つの玉となって突っ込んだものだった。おやじの望遠鏡を
持ちだして腰につけている。敵機が頭上にくるとそれをおもむろに
取りだし、首をぐるぐる廻しながら、敵機の行動を報告するのが、
この男の趣味である。

「級長、どうなるんやろ、戦争は。」大阪がしつこく繰りかえした。
「戦争をどうするか――だ。」藤本が押えつけるようにいった。
「戦争によって僕たちの運命がきめられるんじゃない。僕たちに
よって戦争の運命がきめられるんだ。僕たち相戦う若い者、アメリカの
学生と日本の学生との力比べによって、勝利がどちらへ転ぶかが、
きまるんだ。」

「でもなあ、あんまりやないか、近頃のざまは。物資の差がひど過ぎる
さかい、僕らのちっぽけな努力なんざあ、屁にもならん。」
「そりゃそうかも知れんたい。しかしだ。とにかくいまこの下の町へ
爆弾が落ちたら、理屈も議論もなか。すぐ飛びだしていって、血止めを
せにゃならん。僕は最後まで僕の本分を尽すばい。」藤本が決然いい放った。
大阪は納得しなかった。そこへ大きな角材をかついで副級長がやってきた。
副級長は小倉中学出身で然々と仕事をする男、いまも監視壕の補強工事の
ため独りで汗を流しているのだった。

「敵がほんまにここへ上陸して来よったら、どないするん、おい、副級長。」
「死生命あり。」小倉の男は腰から扇子をとって打をあおぐ。「生きるも
死するも、人に笑われんごと。」
 ひっそりとなった。さるすべりも爽竹桃もカンナも澱んだ血のように
動かない。その中を脈打つような蝉の声が向うの山王神社の大楠から
流れてくる。


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