天使にどうして翼があるのかとこどものころからふしぎだった。
天国のある天の方と、ぼくたちのすむ地上を往復するために必要なのかもしれないと、そのころは単純に思っていた。天使はいつのころからか、人間の姿をかりて表現されている。鳥だったら特に問題はなかったが、人間だから羽とか翼がいるのだろうか。
ここで気になったことがある。
天使はふつうキリスト教で主に描かれているが、キリスト教は一神教のはずだ。だから偶像崇拝は禁止されている。つまり、絵や彫刻などで神や神の代替物を表現してはいけないのだ。
ところがイエス・キリストや聖母マリアの美術品は多い。彼らが神ではなく、人間として見られていたためなのかもしれないけど。それで絵や彫刻等が許されたのだろうか。
天使については、それこそ架空の存在である。人間の姿はしているが、想像上の存在と受けとめられている。それは偶像崇拝にあたるのではないか。
それでいろいろしらべてみた。
天使は神に仕え、神と人間とを仲介する霊的存在である。ペルシアの宗教にはじまり、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教にはいった。
動物が神の使いの役を果たす例は、諸宗教にもみられるが、神と人間との中間的な存在として天使の観念が発達するのは、神と人との断絶性が強い宗教の場合である。
天使は人間にかならずしも好意的とはかぎらず、神に反逆し人間に悪事をはたらく天使もいて、これがいわゆる悪魔である。
キリスト教では、プロテスタント教会においてはほとんどかえりみられないのに対し、ローマ=カトリック教会では重要視され、天使は9階級に分けられている。熾(し)天使(セラフィム)・智天使(ケルビム)・座天使の上級三隊、主天使・力天使・能天使の中級三隊、権(ごん)天使・大天使・天使の下級三隊で、これらの天使は美術では翼を有する人間の形で表されることが多い。
イスラム教では、ユダヤ教の影響をうけ、マホメットに『コーラン』を伝えたジブリール(ガブリエル)をはじめとして、ミーカーイール、アズリール、イスラフィールの諸天使が四大天使とされて、とくに重要な位置を占めている。最後の審判に証人の役割を果たす天使もいる。
一般には神と人間の仲介者として、神意を人間に伝え、人間の祈願を神に伝える霊的実在をいう。仏教・キリスト教・ゾロアスター教ではいずれも天使の存在を認めている。
仏教の浄土には自由に飛行する天人、閻魔王の天使などがある。また天使にあたるギリシア語は<お使い>aggelosの意で、広くは神から差しつかわされた祭司・予言者などをふくむ。しかしキリスト教用語では、人間よりも知恵・能力のすぐれた霊と定義されており、はじめ天使はみな一様に聖にして幸福の状態にあったが、その試練のときルシフェルをはじめ多くの天使は神にそむき、ここに<善天使>と<悪天使>とに分かれるに至った。
善天使は神に忠実にとどまったので、ますます聖とされて永遠の天国の浄福を得、悪天使は地獄の終わりなき劫罰(ごうばつ)を受けるようになった。この悪天使は<悪魔>とよばれる。
したがって、この地上での行状によって、死とともに<天国><煉獄(れんごく)><地獄>のいずれかが定められているのであるが、地上に生きているかぎり<遍歴><巡礼>の状態にある人間とは異なり、天使にはこの遍歴状態にいるものはいない。善天使はつねに神を賛美し、神に仕え、また人間を守護する。人間には各人ごとに守護の天使があり、天使はその人が人生の最高目標である天国の浄福を得るように善を勧め、悪をさけさせる。
カトリック教会において夕べの祈りの時にならされる<アンジェラスの鐘>(お告げの鐘)は天使が聖母マリアに神のお告げとして、その胎内にキリストの宿ることを知らせたことを記念するものである。
またキリスト教美術において天使は、音楽をもって神を賛美し、あるいは神の意図を人間に伝える使者として、翼のある青年・幼児の姿で描かれている。
フランス語でL'ange passe. という表現がある。「天使が通った」という意味だが、会話しているときにしばらく沈黙があったときに使う。天使にどうして翼があるのか、結論はおあずけになったままだが、そのフランス語の表現のことを考えていると、まさにぼくの目の前を透明な天使が通りすぎていくのをみているかのようだ。
