テキストファイル化騎士団

美と健康 豊かな感性と暮らしをもとめて

■ 国枝史郎「神秘昆虫館」(25)  


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■ 国枝史郎「神秘昆虫館」(25) ■全55回
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  25

「いや全くお前さんが、突然ここへ見えた時には、私はいささか驚
いたものだよ。がその代り久しぶりで、お前さんのお父さんの消息
を知り、嬉しくもあれば懐しくもあった。だがどうもちょっと困っ
たな。娘のお前をさえ寄せ付けず、そんなにも酷《ひど》く憂鬱に
なり、部屋へ一人で閉じ籠り、研究に浮身をやつしているとは。…
…ははあそうか、大事な大事な、永生の蝶とかいうものを、二匹と
もなくしてしまったので、それでそんなに変わったというのか。学
者というものは変なものだな。変梃《へんてこ》な蝶をなくしたこ
とぐらいで、気が変わるとは解せないよ。もっとも研究材料で、大
事なものには相違あるまいがな……まあまあそれはそれとして、お
前さんと逢えたのは有難い。遠慮はいらない遠慮はいらない。ここ
を自分の家だと思って、気随気儘に暮らすがいい。何と云っても私
とお前とは、叔父さん姪さんの仲だからな。綺麗な姪さんがやって
来たのだ。これまでは陰気過ぎたこの家も、これからは陽気になる
だろう。……お前さんにとってもいいことだよ、三浦三崎の山の中
などに、そんな虫だの獣だの、片輪者などと住んでいるよりはな。
江戸へ来た方がずっといい。……と云って茫然《ぼんやり》遊んで
いたでは、お前さんにしてからが退屈だろう。そこで何かを習うが
いい。と云ってお父さんはあれほどの学者、したがってお前さんも
学者だろう。だから、恐らく学問などは習う必要はないだろう。ひ
とつ反対《あべこべ》に弟子でも取って、お前さんの方で教授する
かな。……いや待ったり他のことがある、生花や茶の湯を習うがい
い。山の中にいたお前さんのことだ、そういうことは知らないだろ
う。茶の湯、生花、これからお習い! え、何だって、知っている
って? 痩せ我慢はいけない、気取ってはいけない。山家育ちのお
前さんなどが――と云っても大変別嬪だが、何の茶の湯や生花など
を、知っていることがあるものか。え、本当に知っているって? 
ふうん、そうか、それは感心。そうかも知れない。そうかも知れな
い、打ち見たところ上品で、女一通りの芸や作法ほ、どうやら心得
ているように見える。何さ何さ一通りどころか、十二分に心得てい
るらしい。とするとどうも困ったな。何を習ったらいいだろう? 
おおそうだ、いいものがある、お習いお習い、泥棒をね」

 葵ご紋の威厳のある武士《さむらい》は、能弁に愉快そうに喋舌
って来たが、とうとうこんなことを云い出してしまった。泥棒を習
えというのである。
 これにはさすがの桔梗様も、驚いたかというに驚かなかった。

 したたるような美しい眼と、恍惚《うっとり》するほどの美しい
声とで、負けずに愉快そうに云ったものである。
「叔父様、結構でございますこと、習いましょうねえ、泥棒を」
「え?」とこれには叔父の方が――葵ご紋の武士の方が、あべこべ
に仰天したらしい。「本当かな、習う気かな、泥棒という商売を?」

「はいはい妾《わたし》習いますとも、大喜びで習いますとも。あ
の、必要がございますので」桔梗様は真面目に云ったものである。
「これはこれは」と葵ご紋の武士は、いよいよ胆を潰したらしい。
「度胸がいいの。偉い度胸だ。どんな必要かな? 云ってごらん?」

 すると桔梗様は一層真面目に、それでいて途方もなく愉快そうに、
ズケズケこんなことを云い出した。
「お探ししたい人がございますの、綺麗な綺麗なお侍さんなの。少し
皮肉ではございますが、そこがまた大変よいところで、可愛らしいの
でございますの。……云い交わした人なのでございます、恋し合った
方なのでございます。……たしか只今は江戸住居《ずまい》で。どう
ともしてお探しし、お逢いしたいのでございますの。……ようござい
ますわね、泥棒は。どこへでも勝手に忍び込め、どんな方とも逢うこ
とが出来、ほんとに何て結構なんでしょう。でもねえ叔父様」と甘え
た声で、「よい先生がございましょうか、上手に泥棒をお教えになる」

「待ったり」と叔父様は――葵ご紋の武士は、眼を円くすると手を振
った。「私は知らぬよ、こんな娘は! 驚きましたね、二の句も継げ
ない。どうも当世の娘っ子は、油断も隙も出来ないの。叔父さんを前
にちゃアンと据えて、恋人があるというのだから。とんだ姪さんを持
ったものさ。私は謝罪《あや》まる、私は謝罪まる。……そうは云っ
ても面白いの。やっぱり血統は争われない、反骨稜々侠気充満、徳川
宗家に盾突いて、日本は狭いと云うところから、海を渡って異国へ行
った、我々のご先祖の血液が、お前のお父さんにもこの私にも、お前
さんにも通っているらしい。……うむ!」と云うとどうしたものか、
葵ご紋の威厳のある武士は、にわかに不思議な表情をしたが、すぐに
磊落に笑い出した。「先生かな、泥棒さんの。いるともいるとも、こ
こにいるよ」云うと一緒に手を延ばし、手首を曲げると人差し指を延
ばし、ポンと自分を指さした。それから云ったものである。

「大泥棒! 異国をさえも盗む! そういう泥棒の先生がな」
 ――でまたそこで磊落に笑った。



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■ ノート ■
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 このコーナーは、本文の中にでてくるわからない言葉や、難しい
言葉の意味を解説するコーナーです。
 ときには図解もします。そのときはHP上にジャンプすれば図解説
が見られるようにします。

●磊落
らい‐らく【磊落】
気が大きく朗らかで小事にこだわらないさま。「豪放―」

[ 2006/02/06 23:42 ] [文芸]国枝史郎伝奇小説コレクション | トラックバック(-) | コメント(-)

■ 国枝史郎「神秘昆虫館」(24)  


■ 国枝史郎「神秘昆虫館」(24) ■全55回
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  24

 引っ包まれた小一郎は、既に覚悟は決めていた。何のビクとも驚
くものか。例によって下段に太刀を付け、身を沈ませて構えたが、
残念地の利が悪かった。背後は大川、引くことが出来ぬ。前には敵
の二十人、揃って太刀を中段につけ、掛け声もかけず静まり返り、
半円を作って寸から寸? ジリジリジリジリと寄せて来る。

「ちと手強い」と小一郎は、考えざるを得なかった。「木精《こだ
ま》の森で切り合った、あの時の連中より強いらしい。じっと構え
込んだ様子で解る。……ふふん例によって集五郎め、衆の真ん中に
控えておる。こいつも今夜は懸命らしい。……さあてこれからどう
したものだ」考えがグルグル渦を巻く。桔梗様のことに気が付いた。
と、カーッと血が湧いた。「桔梗様が江戸にいると云う。本当かし
ら? いるなら是非とも逢いたいものだ。どうともしてお探しした
いものだ。……」にわかに一式小一郎は、その場から遁れたいと思
い出した。

「永生の蝶などどうでもいい。南部一味にくれてもいい。蝶さえ渡
したら文句はあるまい。こんな奴らとかかりあい、傷でも受けたら
つまらない。トッ放そうかな、永生の蝶を」
 その間も敵は逼《せま》って来る。

 中段に付けた敵の刀が、月光を吸ってキラキラと、鋩先《きっさ
き》を上下へ動かすので、無数に螢が飛ぶようだ。
 次第に半円が縮《ちぢ》まって来る。後へ後へと小一郎は、退か
ざるを得なかった。

「どうしたものだ、どうしたものだ!」小一郎は焦燥を覚えて来た。
下段に引き付けた太刀構えが、だんだん上へ反ろうとする。
 と、その時小一郎の眼に、チラリと映ったものがある。敵勢の背
後、家並の軒、月光の射さない一所に、じっとこっちを見詰めなが
ら、スラリと立っている人影である。黒頭巾で顔を隠している。黒
の振り袖を纏っている。裾が朦朧と暈《ぼ》けている。裾模様を着
ているためらしい。まさしく女に相違ない。左の肩に生白く、懸け
ているのは何だろう? 袋のようなものである。

 と、そこから声がした。
「お放しなさりませ、永生の蝶を」
 その女が小一郎へ云ったのである。「冷泉華子でございます」
「ははあさてはこいつだな」咄嗟に小一郎は感付いた。「女方術師
の蝦蟇《がま》夫人! ……放すかな、永生の蝶を!」

 その間もジリジリと敵の勢は、威嚇的に無言に逼って来る。そい
つに連れて小一郎は、後へ後へ後へと下る。
「これはいけない、崖縁だ!」小一郎は総身汗ばんだ。片足の踵が
大川の崖へ、今や半分かかったのである。もう絶対に引くことは出
来ない。一足引けば転落だ。

 またも女の声がした。「お放しなさりませ、永生の蝶を」
「うむ」と坤いた小一郎は、グッと懐中へ手を入れたが、その手を
抜くと空高く、投げた! 何かを! 黒々と!

 蝶だ! クルクルと月光を縫い、舞い去ろうとする! 舞い去ろ
うとする! とたんに女が進み出た。ポンと投げたは袋様の物で、
ベッタリ地上へへたばる[#「へたばる」に傍点]と、何と生ある
もののように、ムクムクと背中を持ち上げた[#「持ち上げた」に
傍点]ではないか。続いて開いたは大きな口だ。と、そこからスラ
スラと、一筋の白布が濠気のように、空に向かって巻き上ったが、
飛び去る蝶を追っかけた。

 何という卑怯だ、その一刹那に、南部集五郎は声も掛けず、翻然
と小一郎へ躍りかかった。
「こやつ!」と叫んで小一郎は、キワドク受けは受けたものの、足
を辷らせザンブリと南無三! 南無三! 大川へ落ちた。

 シ――ンと岸上静かである。南部の一味立ち去ったらしい。
 もがいているのは小一郎で、今や弱れようとしているのであった。
小一郎は水練には達していた。しかし全身疲労《つかれ》ていた。
転落する時腕を挫《くじ》いた。で、泳ぐことが出来ないのである。

「無念、死ぬのだ、もう駄目だ!」
 沈んでは浮かび、浮かんでは沈む。
 どこからも救いは来ないらしい。
 だがその時下流の方から、こんな掛け声が聞こえてきた。「エッサ、
エッサ、エッサ、エッサ」

 つづいて現われたのは小舟である。一種異様な軽舟で、七人の男女
が乗り込んでいる。櫂の数は六挺である。七福神の乗っている宝舟、
そんなような形の舟である。船首《へさき》に龍の彫刻《ほりもの》
がある。その先から総《ふさ》が下っている。月光に照らされて朦朧
と見える。魔物のように速い速い。六人が櫂を漕いでいる。一人が梶
を握っている。

 小一郎の側まで来た時であった。
「オッと止めたり、舟をお止め、人間一人アブアブと、土左衛門にな
ろうとしているじゃアないか。お助けよ、お助けよ、何も功徳だ」こ
う云ったのは梶を握っていた女。

「合点」と一同答えた時には、舟はピタリと止まっていた。と、その
舟から手が延びて、グーッと引き上げたは小一郎の体!
「さあ介抱は葦駄天だ」
「おいよ」と云うと一人の男は、小一郎の衣裳を絞ったが、
「やアいい男のお武家さんだ、弁天の姐《あね》ごが惚れなければい
いが」

「何を云うんだよ途方もない」弁天と呼ばれた梶取りの女は、クック
ックッと笑ったが、「さあさあ漕いだり、お急ぎお急ぎ」エッサ、エ
ッサ、エッサ、エッサと、舟、上流へ駛《はし》って行く。


 ちょうどこの頃のことである。大川の名が隅田川と変わり、向こう
の岸は三囲社《みめぐりのやしろ》、こっちの岸は金龍山、その金龍
山の一所に、川面へ突き出して造られた、一宇の宏大な屋敷があり、
その屋敷の奥まった部屋で、しめやかに話している男女があった。

「そろそろ彼らの来る頃だが、まだ水門は開かないかな」こう呟いた
は男である。百歳以上ではあるまいか? そう想われるほどの老人で
はあるが、青年のように血色がよい。葵の紋服を纏っている。「それ
はそうとお前さんが、突然当家へ見えられた時には、俺もいささか驚
きましたよ」

「相済みませんでございます」こう云いながら微笑したのは、昆虫館
館主の娘であった。すなわち他ならぬ桔梗様であった。


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 国枝史郎のページは下記のアドレスです。
 http://ventvert.fc2web.com/kunieda_shiro/kunieda_shiro.html

 ほかのフリーブックは、ヴァンヴェール書店のフリーブックコーナー
にあります。随時アップしていきますので、ときどきのぞいてみてくだ
さい。
 http://www.miyazaki-catv.ne.jp/~ventvert/

[ 2006/01/25 16:42 ] [文芸]国枝史郎伝奇小説コレクション | トラックバック(-) | コメント(-)

●国枝史郎コレクションの特別ページをつくりました 

●国枝史郎コレクションの特別ページをつくりました。

現在20作品ほどアップしています。

パソコンで読めるように設計していますので、かなり読みやすいと思います。

それから、一話が10分以内に読めるように、分割していますので、長編でも難なく読み通せます。

残りの作品も続々アップしていきますので、お楽しみに。

国枝史郎コレクション

[ 2006/01/18 15:54 ] [文芸]国枝史郎伝奇小説コレクション | トラックバック(-) | コメント(-)

国枝史郎「沙漠の古都」(44) 

国枝史郎「沙漠の古都」(44)

        四十四

 老人は静かに云いつづけた。
「凄まじいほどの巨財なのじゃ。ところで今日の世界と云えば物質一方の世界ではないか。そういう世界へこれだけの巨財を仮りに提供したとなったら、その財宝の所有争いで国々で戦争さえするであろう。それを私は恐れるのじゃ」
 老人はこう云って沈黙した。私には老人のその言葉がいかにも真理に聞こえたのでそれからは何んにも云わなかった。
 老人は自分で蝋燭を取って私の前を歩きながら、地下に造られた四十の部屋をいちいち私に見物させた。
 お伽《とぎ》の世界にでもあるような幽幻神秘の宝物庫が、私の眼前に展開されて、見て行く私の眼を奪い計り知られぬその価値に私は思わず溜息をした。
 私は発見したのである! 探し廻っていたその宝庫を! 数千年前支那の西域羅布《ロブ》の沙漠に国を建てた回鶻《ウイグル》人の一大国家が、基督《キリスト》教徒に征《せ》められて国家の滅びるその際に南方椰子樹の島に隠した計量を絶した巨億の財を私は今こそ発見《みつ》けたのだ!
 老人と一緒に船に乗って私は森林へ帰って来た。そして人猿に守られて老人の岩窟へはいったのである。
 こうして再び老人と一緒に岩窟《いわや》で生活するようになった。
 老人が彼らに命じたのでもあろう、それ以来私は人猿達に監視されることがなくなった。私は文字通り森林の中を自由自在に歩くことが出来て、老人をこの国の国王とすれば私は副王の位置にあった。
 私の生活は安全であり前途は希望《のぞみ》に充ちていた。と云うのは老人が口癖のようにこのように私に語るからであった。
「わしは大変年老いている。わしは間もなく死ぬだろう。そうしたら君こそここの王じゃ。ここの国王に成ったからには、あの水底の地下室の一切の財宝の所有者じゃ! 君の随意にすることが出来る」
 しかし老人は容易のことではこの世を去りそうにも見えなかった。钁鑠《かくしゃく》として壮者を凌《しの》ぎ森林などを駈け歩いても人猿などより敏捷であった。私も老人の真似をしてよく森林を駈け歩き彼らに負けまいと努力した。
 こうして半年が経過した。そして一年が過ぎ去った。
 ある日老人が私を呼んで、種々の鍵を手渡してくれた。そしてどうして一日のうちに大水を自由に動かし得るかそういうことまで話してくれた。それは老人の科学思想がいかに発達しているかを証明するに足るところの霊妙を極わめた装置であって、それを私が知った時にはこの老人を敬う念が以前《まえ》よりは一層加わっていた。
 老人は私の手を握った。
「君は明日からここの王じゃ。彼らを愛してやりたまえ。私は少しく休息しよう」
 こう云って優しく目を閉じた。その日が暮れて夜となり月が天上に輝いている時老人は安らかに死んで行った。
 翌日私達は老人のために新らしい柩《ひつぎ》を拵えた。夜になるのを待ち構えて小丘の上へ葬った。いつも賑やかな人猿達も今宵に限って静粛であった。空には月が照っている。森林では夜鳥が鳴いている。人猿どもは墓標を囲んで夜が更けるまで蠢《うごめ》いている。
 墓場の前で人猿達に、私はこのように宣言した。
「老人に代わって張教仁がこの森林の王となる! それはお前達の誰よりも私が一番利口だからだ!」
 人猿どもは首を垂れて私の言葉を傾聴した。私はそこで丘を下りた。人猿達は私を守って虔《つつま》しやかに歩いて行く。
 こうして私はこの日を初めに完全にこの国の王となった。人猿どもはこれまで通りに森林の中で楽しげに暮らして老人のことは忘れたらしい。私の言葉の命ずるままに彼らは怡々《いい》として従った。
 私は新らしく授けられた自分の力を試みようと、老人の教えに従って一つの鍵を使用した。するとその時まで乾いていた湖水の跡の大磐石が音もなく静かに刎ね上がり、その後へ出来た大穴から沸々と水が盛り上がった。見る見るうちに漲り渡り再び洋々たる湖水《みずうみ》の態《さま》が私達の眼前に拡がっていた。
 人猿たちはそれを見ると森林の中から走り出て、湖岸に立って奇怪至極の彼らのダンスをやり出した。
 ここに再び人猿国には昔ながらの平和が帰り、巨財を貯えた四十の地下室は沙漠の砂丘を頭に戴き肩のほとりに秘密の入り口――すなわち狛犬《こまいぬ》に守られたところの不思議な社《やしろ》を保ったまま落ちる夕陽、昇る朝陽に燦《まばゆ》くキラキラと輝きながら永遠の神秘を約束して私の支配下に眠っている。



[ 2006/01/18 00:24 ] [文芸]国枝史郎伝奇小説コレクション | トラックバック(-) | コメント(-)

国枝史郎「沙漠の古都」(43) 

国枝史郎「沙漠の古都」(43)

        四十三

 そして私は再び同じ所に社《やしろ》んで沙漠を見ようとしているのだ。
 しかし私が森林を出て眼を前方に走らせた時、沙漠も堤も狛犬も悉く水に埋ずもれてわずかに社の屋根ばかりが水を抜け出て輝いているのがハッキリ両眼に焼き付いた。まことにそこには沙漠の代りに湖水が漲っているのであった。
 しかし私は驚かない、むしろ予期していたことである。
 私は荷車へ飛び上がってあるだけの焼き肉をひっ[#「ひっ」に傍点]掴み四方八方へ投げ散らした。そして人猿の叫び声や格闘の響きを後にして筏《いかだ》を湖水へ浮かべたが、二挺の櫂を手に持ってヒラリと筏へ躍り上がり櫂をあやつって辷《すべ》り出た。
 筏はずんずん進んで行く。人猿どもは岸に並んで物凄い叫びを上げながら拳を揮《ふる》って打つ真似《まね》をするが、間を大水が隔てているのでどうすることも出来ないらしい。筏はずんずん水を切って社頭の方へ進んで行く。私の胸は期待に充たされ心臓が劇しく鼓動する。
 夕陽、微風、波の囁き――湖水の上は涼しくてどのように漕いでも疲労《つか》れない。
 筏は社に近寄った。
 湖上に出ている屋根の側まで筏が流れて来た時に、そこに一隻丸木舟が纜《もや》ってあるのに気が付いた。それに不思議にも社の屋根に人間が一人はいれるくらいの四角な穴が開いていて垂直に梯子がかかっている。
 私はこれを眺めた刹那《せつな》、既に秘密の十分の九まで解決したような気持ちがした。私に何んの躊躇《ちゅうちょ》があろう! 独木舟《まるきぶね》の船尾《とも》へ筏を纜《つな》ぎそれから屋根へ這い上がった。
 それから梯子を下ったのである。
 下へ下るに従って射し込む日光が薄くなり全く暗黒になってからも尚下へ下りなければならなかった。私はこっそり心の中でおおよその間数を数えながら下へ下へと下りて行った。
「十間、二十間、三十間……」
 と、ここまで数えて来た時に梯子は既に尽きていた。それとも知らず私の足は次の桟木を踏もうとしてハッと空間に足を辷らせ真っ逆様に墜落した。
 そして気絶をしたのであった。

 私の意識が次第次第に恢復するように思われた。一人の老人が私の前に蝋燭《ろうそく》を持って立っている――しかし恐らく幻覚であろう――その老人を囲繞して宝石が無数に輝いている。黄金の兜、黄金の鎧、蝋燭の光に照らされて天上の虹が落ちたかのように燦々奕々《さんさんえきえき》と光を放し香の匂いさえ漂っている。
「何んという美しい幻覚であろう」
 私は半分正気付いてこう口の中で呟いた。
「なんという立派な老人であろう――岩窟に住んでいる動物学者のあの老人にそっくりだ……幻覚よ、永く消えないでくれ」
 私はまたも呟きながら体を起こそうともがくのであった。
 気高い老人が重々しく髯だらけの口を動かした。
「気が付いたかな、張教仁!」
 私は辛うじて返辞をした。
「あなたはどなたでございます?」
「わし[#「わし」に傍点]は岩窟の老人じゃ」
「動物学者のご老人?」
「そうだ。そうして人猿国の国王と云ってもよいだろう」
 私は四辺を見廻した。何も彼も尊げに光っている向こうの隅には黄金の板、櫃《ひつ》の上には波斯絨毯《ペルシャじゅうたん》。黄金で全身をちりばめられた等身大の仏の像はむきだしに壁に立てかけてある。その仏像の左右の眼には金剛石が嵌められてあって蝋燭の光に反射して菫色《すみれいろ》の光を澪《こぼ》している。
「ここはいったいどこなのです?」
「ここは水底の地下室じゃ!」
「宝物庫でございますな?」
「いかにもさようじゃ。羅布《ロブ》人のな」
「え、羅布《ロブ》人でございますって!」
「回鶻《ウイグル》人と云ってもよい」
「回鶻《ウイグル》人でございますって? ――それでは私はようやくのことで目的をとげたというものだ! 羅布《ロブ》人の宝庫! 羅布《ロブ》人の宝庫!」
「しかしお前が発見《みつ》けるより先に私がいち[#「いち」に傍点]早く見付けていた。危険の多い湖底から沙漠の地下室へ人猿と一緒に宝を移したのもこのわしじゃ」
「それでは渦巻を起こしたのも湖水の水を涸らしたのも皆あなたでございますか?」
 老人は黙って微笑した。
「それにしてもあなたはこの宝庫を何故世の中へ発表して用に立てないのでございます?」
「ただわし[#「わし」に傍点]がそれを欲しないからだ。地下には四十の部屋があってあらゆる宝石貴金属が一杯そこに詰まっている。何億あるか何十億あるか、現代の貨幣に換算したらそれこそ大陸の二つや三つは優に買うことが出来るだろう……」



[ 2006/01/18 00:24 ] [文芸]国枝史郎伝奇小説コレクション | トラックバック(-) | コメント(-)

国枝史郎「沙漠の古都」(42) 

国枝史郎「沙漠の古都」(42)

        四十二

 森林には大勢の人猿どもが彼らの生活を営んでいたが、私を見ると警戒するように互いに何か叫び合った。私は老人に教わった人猿どもの言葉のうち、簡単な単語だけを知っていたので、最初に行き逢った人猿に向かって、
「焼き肉。食え!」
 と彼らの言葉でまず元気よく云って置いて持って来た燻肉を投げてやった。その人猿は最初のうちは地に落ちている肉の片を審《いぶか》しそうに見ていたが、とうとう片手で取り上げて口へ持って行って噛み付いたが、生肉の味とは似ても似つかぬ微妙な味に驚いたか、その肉片を握ったまま彼の仲間へ飛んで行き、忙がしく何か喋舌り出した。と一斉に人猿どもは私の方へ眼を向けたが爛々と光るその眼に打たれて私は思わず戦慄した。
 次の瞬間には私の周囲《まわり》を幾百という人猿どもが三重にも四重にも取り巻いて、両手を私へ突き出してじっと私を見守っていた。手に持っただけの肉片を彼らの群の中へ投げ込んで置いて、私は恐怖に襲われながら木の上の小屋へ逃げ込んだ。
 私の計画は成功してその時以来人猿どもは私の姿を見掛けさえすれば、両手を前へ突き出して燻肉を請求するのであった。
 ある時私は蔓《つる》で編んだ大きな籠を拵えたがその中へ燻肉を一杯に充たして最初の旅行を企てた。しかし十町と行かないうちに籠の中の肉は悉《ことごと》く尽き、肉が尽きると人猿どもは歯をむき[#「むき」に傍点]出して威嚇した。そして私を小屋の方へ遠慮会釈なく追い立てた。それで私はまた空しく小屋へ帰らなければならなかった。
 こうして幾日か日が経った。
 湖水は依然として空である。水溜りの水も悉く干《ひ》て水草などは大概枯れた。
 無尽蔵にいる兎や狐を狩り取ることもいと容易《や》すければ、その肉を燻《あ》ぶることも焼くことも大して手間は取らなかったが、私の目指す森林の奥まで持ち運ぶ方法に苦しんだ。途中で餌物がなくなろうものなら、あの兇暴な人猿どもはまたもや遠慮会釈なく小屋へ追い返すに違いない。これが自分には苦痛であった。
 しかし窮すれば通ずという古い諺にもある通り、間もなく私はその困難に打ち勝つ方法を発見した。
 荷車を製造《つく》るということである。
 なんという容易なことだろう! しかしこうやって思い付いて見ればきわめて容易のことではあるが、思い付くまでの苦心と云ったらまたひと通りのものではない。私はこの事を思い付くや否や嬉しさのあまり雀躍した。
 私は焼き肉を褒美にして人猿どもを使用した。彼らは私の命令通りどんなことでもするのであった。彼らの爪は鋸《のこぎり》であり彼らの犬歯《きば》は斧であった。そして素晴らしいその腕力はモーターとでも云うべきであろう。やはり半日とはかからないうちに立派な一個の荷車が出来た。思う仔細があったので、その他に私は一人乗りの筏《いかだ》を一隻製造《つく》らせた。二本の櫂《かい》も……
 それは天気のよい朝であったが、焼き肉を荷車にウンと積み込み筏をその上に引き冠ぶせ、筏の上へは私が乗って、一匹の人猿に車を押させて二度目の旅へ出発した。

 人猿は四方から集まって来てひしひしと荷車を取り囲み胡散臭《うさんくさ》い眼付きで私を見た。その時私は一掴みの焼き肉を後方目掛けて投げつけた。これと同時に人猿の群から鋭い叫び声が湧き起こり、続いて格闘が始まった。落ちて来た焼き肉を拾おうとして互いに争っているのである。元来彼らは食物については仲間同志争った例がない。それは彼らの世界とも云うべきこの広大なる原始林の中に無尽蔵に食物があるからであって、彼らは自分の要求に応じて何んでも自由に得ることが出来た。自然競争の必要もなく格闘することもなかったのである。それだのに一度私が現われこれまで一度も味わったことのない、不思議な食物――焼き肉が、私の手によって投げられた。しかもその肉はきわめて美味でその上制限されていて無尽蔵に食うことは出来ないのである。だからどうしても必然的に食物競争が行われる。そこが私の付け目であって、彼らが競争しているうちに荷車を前方へ進めるのであった。
 焼き肉――競争――格闘――前進!
 日光も透さぬ大森林を荷車はグングン進んで行った。そして朝が昼となりやがて夕暮れが近付く頃、大森林の涯《はて》まで来た。
 この森林の果てへ来るのが私の唯一の目的であった。そして森林のこの果てはかつて前方《まえかた》ダンチョンと一緒に道に迷って来た事があった。そしてその時私は見た!
 代赭《たいしゃ》色をした平原を! その代赭色の沙漠の中に一筋堤防のあったことを! そして堤防のその上に二頭の狛犬に守られて神の社があったのを!



[ 2006/01/18 00:23 ] [文芸]国枝史郎伝奇小説コレクション | トラックバック(-) | コメント(-)

国枝史郎「沙漠の古都」(41) 

国枝史郎「沙漠の古都」(41)

        四十一

 ……今、水牛が穴の中へもんどり[#「もんどり」に傍点]打って投げ込まれた。水勢は忽ちそれを捉らえて穴の内面を漏斗形にグルグルグルグルとぶん[#「ぶん」に傍点]廻した。もがく事さえ出来ないと見えて四足を高く持ち上げたまま余りに水勢が劇しいため水中に深く沈むことも出来ず全身を水面へ露出したまま虹の花輪のその真下で死の輪舞を続けていたがやがて次第に水勢に巻かれて下の方へ下の方へと落ちて行き忽ち姿は見えなくなった。次から次と様々の獣が今の水牛と同じように渦巻に散々揉まれたあげく例外なしに水穴へ落ちると、同じように漏斗形に廻り廻ってやがて地底へ引き込まれて行く……そして水穴の縁の辺には水蒸気の雲が立ち迷い虹がキラキラと輝いている。……見る見るうちに水は減り周囲の岸が高く峙立《そばだ》ち、湖底が徐々に露出《あらわ》れて来た。
 ――私の書き記す備忘録には少しの偽りも記してない。偽りを書かない備忘録へ私はこの後の光景を実に次のように書いたのである。……

 やがて湖水は全く涸れて、いつか渦巻も消えてしまった。そしてその後へ残ったものは欝々《うつうつ》たる原始林に取り囲まれた火山岩で造られた大穴である。所々の水溜には小魚がピチピチ刎ねているし水草が岩石にからまっている。底には砂礫が溜まってはいるが泥はほとんど見あたらない。砂礫に埋もれて恐龍の死骸が幾個もあちらこちらに転がっている。
 私達始め土人達は湖水の跡へ下りて行って各※[#二の字点、1-2-22]勝手の探検をした。
 私達は渦巻の起こったほとりの湖水の底とも覚しい辺へ急いで足を向けて行ったがそこには直径一町もあるような大磐石があるばかりで穴らしいものの影もない。ダイナマイトを取り寄せて念のため大石を砕いて見たが岩の破片が飛ぶばかりで大磐石は動こうともしない。
 それからいったい湖水の水はどこへ流れて行ったのであろう? そして巨大な獣はどこへ行衛を眩ましたのであろう?
 空は蒼々と照り渡り森林は粛然と立っているが、私達の疑問は解けようともしない。誰も彼も黙然と押し黙って四辺を見廻すばかりである。
 マハラヤナ博士は印度人らしい迷信深い眼付きをして、天地を交替交替《かわるがわる》見廻していたが、卒然としてこう云った。
「神の怒りじゃ! 神の奇蹟じゃ! 霊地を我々が穢したため天帝が恐ろしい奇蹟を現わし我々に怒りを示されたのじゃ!」
 するとラシイヌは科学的の冷やかな声でこう答えた。
「神の怒りではありますまい。恐らく奇蹟でもありますまい。彼らが――すなわち、人猿どもが、悪戯《いたずら》をしたのだと思われます。奇蹟ではなくトリックです」
「いやいや決してそんな筈はない」博士は躍起となりながら、「奇蹟でなくて何んだろう? あの大水が見ているうちに行衛知れずになったのは正しく神の奇蹟なのじゃ! 人猿どもに、あんな動物に、これだけの奇蹟が何んでやれよう、――それとも君は水の行衛を説明することが出来るかな?」
「岩です、岩です、この大磐石です! この中へ水は落ち込みました」
「それでは君は岩を砕いて水の在所《ありか》を示すがよい」
「ご覧の通りダイナマイトを掛けても大磐石は砕けようともしない。この大岩さえ砕けましたら水の在所はすぐに知れます」
「いやいや、岩の砕けないのがすなわち神の御心《みこころ》なのじゃ!」
 二人の議論は土人達の間に電光のように拡がった。迷信深い土人達は迷信深い博士の説に一も二もなく同意した。
 そして土人のこの行動が結局大勢を左右してラシイヌ探偵も一行と一緒にこの土地を去らなければならなくなった。そして最初の計画通り濠州を指して第三番目の探検旅行を試みようとサンダカンに向かって引き返した。

 私は蕃地へとどまったが、私の蕃地の生活はかなり不自由で寂しかった。
 私は終日小屋に籠もって計画について考えた。計画というのは他でもない。ラシイヌ探偵の意見と同じく水の行衛《ゆくえ》を探すことであった。
 私は次のように考えた――
 湖水の水が涸れたのは涸らすだけの仕掛けがあったからで決して神秘でも奇蹟でもない。それならいったい何んの理由で湖水の水を干したのか? それは思うに、羅布《ロブ》人の巨財が湖水に隠されてはいないということを、探検隊の人達に証明するためのトリックである。
 それではいったい湖水の水はどこに湛えられてあるのであろう? それこそ私がどんなことをしても探し出そうと決心している大事な計画の一つであって水の行衛が知れると一緒にあるいは羅布《ロブ》人の巨財の在所《ありか》も自ずと知れるようにも思われる。
 私はとにかく何より先に有尾人達の住んでいる森林の中へ分け入って私の疑問を試みようとした。しかし不思議にも人猿どもは、私を絶えず監視して森の奥を訪《おとの》うのを拒絶した。そしてもちろん岩窟《いわや》の老人も私が森林へ分け入ることを非常に嫌っているらしかった。
 そこで私はこう思った――
「何より先に人猿どもを自分の味方に慣《なつ》けなければならない」
 とは云えどうしてなつけ[#「なつけ」に傍点]たものか最初は考えにも及ばなかったがその内一策を考え出した。私は美味《うま》い食物によって彼らを釣ろうとしたのであった。彼らは半分《なかば》人間ではあったが煮焚《にた》きの術を知らなかった。それを私は利用したのである。
 ある日私はいつものように自分の小屋の石のストーブで兎の肉を燻《い》ぶしていた。それがすっかり出来上がった時果実《このみ》の絞り汁に充分浸して小屋から外へ出て行った。



[ 2006/01/18 00:23 ] [文芸]国枝史郎伝奇小説コレクション | トラックバック(-) | コメント(-)

国枝史郎「沙漠の古都」(40) 

国枝史郎「沙漠の古都」(40)

        四十

 今までは小さな漣さえなかった碧玉の湖水が白泡を浮かべて奔馬のように狂っている。そして不思議にも湖上の水は巨大な渦巻を形造って湖心を中心にして廻っている。私達の船はその渦巻の一番外側の輪の中にあった。船はその輪の水勢に連れて湖岸に添うて走って行く。
 船が走るに従って岸上の土人軍は驚嘆の声を口々に鋭く叫びながら船の後から追っかけた。しかし水勢には及びもつかず見る見る船と彼らとの距離は遠く遠く隔った。
 湖水を一周した頃には船は渦巻の第二の輪をいくらか渦巻の中心の方へ傾きながら走っていた。私達はあらゆる努力をして渦巻の外へ出ようとしたが、蟻地獄へ落ちた蟻のようにどうすることも出来なかった。船は岸上に屯ろしている土人軍の前を過ぎようとした。その時土人達は口々に叫んで棕櫚縄を一筋投げてくれたが船首をわずかに掠めたばかりで空しく水中へ落ちてしまった。いつか私達は渦巻の輪の第三番目にはいっていた。水は輪なりに走りながら時々高く盛り上がり次の瞬間には波を立てて低く落ち窪んだ。私達の船が波に乗って高く空中へ盛り上がった時、私は素早く眼をやって渦巻の中心を見たのであった。その辺一体は白泡に閉ざされ数千の白馬が鬣《たてがみ》を振って踊りを躍っているように見えたが、その白泡の真ん中所に直径半町もあろうかと思われる蒼黒い穴が開いていて、湖中の水はそこを目掛けてただ直向《ひたむ》きに押し寄せていた。穴はあたかも漏斗《じょうご》のように円錐形を呈していて、落ち込む水がそこへはいる滝のようにすぐに落下せずにやはり漏斗形に廻り廻って静かに地底へ潜《くぐ》るのであった。
 私は船が波の頂きに一瞬間とどまっている時にこれだけのことを見て取ったので、波が崩れて谷が開けその水の谷へ真一文字に私達の船が突き入った時にはもう水穴は見えなくなった。
 この間も船は水穴を目掛けて刻々に進む水勢に引かれて湖水をグルグル廻っている。
 何気なく岸の方を眺めて見ると遙か彼方に断崖のように赭黒い色をして聳えている。いつもは岸に擦れ擦れになって湖水の水が湛えているのに、今は一丈余の断崖となって森林を背負って立っている。つまりそれだけ湖水の水が地下に吸い込まれてしまったのである。
 こうして私達はどれほどの時間湖水の面に漂っていたか考えて見ることも出来なかったが、とうとう船が渦に巻かれて湖心に出来ている水穴の中へ正に落ち込もうとした時に、天佑とでも云うのであろうか、忽然と水穴が閉ざされ大渦巻が運動を止め湖面は再び鏡のように日光を吸って輝き出した。
 私達は初めて元気付いて力を極めて船を漕いだ。そして土人軍の屯ろしている湖水の岸へよじ[#「よじ」に傍点]登った時、蘇生したような気持ちがした。
 湖水の水はその容積の三分の二余りを減じていた。水草が水面に旗のように流れ、幾匹かの恐龍と雷龍とが巨大の首を水から出して私達の方を眺めている。水禽は一羽もいなかった。岸に近い水は森林を映し、岸に遠い水は空をひたしていとも平和に澄んでいる。
 あの素晴らしい渦巻の恐ろしかった光景はどこを眺めても見当らない。水はいかにも減じてはいるが、太古のままの夢を孕《はら》んで森然《しん》と静まり湛えている。
 私達は互いに眼を見合わせ一言も物を云わなかった。豪雄のラシイヌ探偵さえ空しく湖水を眺めるばかりで、陽に焼けて黒いその顔には驚異の情ばかりが浮かんでいる。
 こうして私達は湖水の岸にしばらくの間佇んでいた。
 その時、またも湖水の面に以前《まえ》と同じ奇蹟が行われた。湖心のあたりに蒼黒い穴が忽然と一つ現われたが、そこを目がけて湖中の水が渦巻きながら押し寄せて行く。
 何んという奇観! なんという壮大! 湖中に流されて眺めるのと湖岸に立って見渡すのと、こうまで相違があるものであろうか!
 ……見渡す眼下の湖水の水は何物にか引かれてでもいるかのように渦の外輪は大波を立て、渦の内輪は独楽《こま》のように澄み切った速さで廻っている……名も知らぬ畸形の海獣や巨大な水牛やトラコドンは、その渦巻に巻かれまいと水沫《しぶき》を立てて狂い廻りながらしかも水勢には争い難くやはり渦巻に巻かれたまま蒼黒い水穴――死の漏斗《じょうご》へ、一刻一刻近寄って行く、……死の水穴の縁のあたりには落ち込む水が斬り合って水蒸気の雲を濛々と立て陽に輝いて眼も眩むような鮮かな虹を懸けている……虹の花輪に飾られた蒼黒い漏斗、死の水穴は、落ち込む水をすぐ捉らえて、漏斗に入れられた酒や水が漏斗形にグルグル廻りながら下の容器《いれもの》にしたたるように捉えられた水は穴の内面を眼にも止まらぬ勢いで漏斗形に駸々《しんしん》と馳せ廻り、次第に下へ次第に下へグングン廻って落ちて行く……。



[ 2006/01/18 00:22 ] [文芸]国枝史郎伝奇小説コレクション | トラックバック(-) | コメント(-)

国枝史郎「沙漠の古都」(39) 

国枝史郎「沙漠の古都」(39)

        三十九

 探検隊の一行は私を蕃地へ残したまま元来た方へ引き返した。探検隊の人達は――わけてもラシイヌ探偵は自分達と一緒に来るようにと熱心に私に勧めたけれど私は同意しなかった。どうして同意しなかったかというに、それには私だけの理由があった。
 一行がいよいよ湖畔を去って深い原始林へはいって行くや、今まで姿を見せなかった有尾人どもは木や草の中から醜悪の顔を覗かせて賑やかにお喋舌《しゃべり》をやり出した。そして人猿とほとんど一緒にどこかへ姿を隠してしまった動物学者の老人もいつの間にか岩窟に帰っていた。私は今まではダンチョンと一緒に蕃地に停まっていたのであったが、そのダンチョンも一行と一緒に原始林の中へ消えて行って私は文字通り一人ぼっちになった。だから私の友達と云えば予言者のような老人と尾を持っている原始人と湖底の怪物トラコドンなどで、友達と云えば友達ではあるが、いずれも縁遠い者どもであった。
 私はやはり以前《もと》の通りに老人と一緒に老人の岩窟で朝夕日を送っているのであったが、今度の事件が起こってからは、その老人も以前《まえ》のようには私に好意を示さなくなった。それで私は自分の住家を岩窟の外へ求めようとした。老人は長い間考えてからようやく私の希望を容れて小屋を造ることを許してくれた。老人の命令に従って有尾人達は私の小屋を湖水の見える林の中の高い木の上へ造ってくれた。人猿達は腕力に任かせて巨大の生木をピシピシ折ったり鉄より強い藤の蔓を糸でも切るように引き千切ったりして、ものの半日と経たないうちに私の小屋は出来上がった。何より私の喜んだことは老人にも人猿にも妨げられずにたった一人で小屋の中で熟考することが出来ることで、私は終日そこに坐って是非ともこれから行なって見ようと思う計画について考えた。この計画があったればこそ、ラシイヌ探偵の勧めにも応ぜず一人蕃地へ残ったのである。
 しかし私の計画についてこの備忘録へ記すより先に、何故探検隊の一行がこの土地を見捨てて立ち去ったかを書き記す方が順序らしい。

 探検隊の一行が私達の面前へ現われた日のその翌日のことであったが、ラシイヌ探偵の指揮の下に革船を一隻湖水に浮かべて湖底の様子を探ろうとした。折り畳み式の革船で八人乗りの大きさであった。湖水に浮かべる船としてはこれ以上勝れた船はない。軽く漂々と水に浮かんで燕のように軽快である。
 ラシイヌ探偵とレザール氏とマハラヤナ博士と医学士とダンチョン画家と二名の土人、そして私とが船に乗った。湖底の雷龍が首でも上げて船を覆さないものでもないとラシイヌ探偵は心配して、岸に集まっている土人軍に命じて時々大砲を撃たせることにした。もちろんそれは空砲で、ただ臆病の雷龍をその音響で威嚇していつまでも湖底に止どまらせるのがラシイヌ探偵の望みであった。
 殷々と鳴り渡る大砲の音に私達の船は送られて湖水に向かって漕ぎ出した。行く行く私達は水眼鏡で湖水の中を覗いたが、珍奇な水草と畸形の魚とで水中はあたかも人の世における五月の花盛りそっくりである。
 原始林が風を遮《さえぎ》るので湖水の面は漣《さざなみ》も立たずちょうど胆礬《たんばん》でも溶かしたように蒼くどろり[#「どろり」に傍点]と透き通っている。岸に近い水面は木立を映して嵐に騒ぐ梢の様子がさながらに水に映って見えている。船の進むに従って水尾《みお》が一筋水面に走りそこだけキラキラと日光に輝き銀色をなして光っている。無数の水禽《みずとり》が湖心の辺《ほとり》に一面に浮かんで泳いでいたが、船が近付くのも知らないようにその場所から他へ移ろうともしない。
 私達は湖水の中心へ来た。そこでしばらく船を留めて湖底の様子を窺った。しかし到底水眼鏡などでは幾丈と深い水の底を突き止めることなどは出来なかった。靡《なび》く水草、泳ぐ魚、わずかにそれらが見えるばかりだ。
 そこで今度は岸に添うて湖水の周囲を調べようと土人軍達が屯《たむ》ろしているその岸を指して船を漕いだ。土人達はほとんど間断なく空砲を空に向けて撃っている。その陰森たる大砲の音は人跡未踏の神秘境のあらゆる物に反響して木精《こだま》となって返って来る。
 こうして私達の革船が岸から十間ほどに近付いた時、にわかに船が動かなくなった。そしてその次の瞬間には、反対《あべこべ》に船は速く走って後方《あと》へ後方へと戻るのであった。
 思いがけないこの出来事はどんなに私達を驚かせたろう! 半分飽気にとられながらそれでも腕力を櫂にこめて岸へ近付こうと漕ぎつづけた。すると今度は後方《あと》へも戻らず勝《ま》して前方《まえ》へは進もうともせず岸から十間の距離をへだててただ岸姿《きしなり》に横へ横へとあたかも湖水を巡るかのように急速に革船は廻り出した。
 その時ラシイヌの鋭い声が私達の耳を貫いた。
「水を見ろ! 水を見ろ! 水を見ろ!」と。
 私達は一斉に湖上を見た。湖水は湧き立っているのではないか!



[ 2006/01/18 00:21 ] [文芸]国枝史郎伝奇小説コレクション | トラックバック(-) | コメント(-)

国枝史郎「沙漠の古都」(38) 

国枝史郎「沙漠の古都」(38)

        三十八

 人猿と老人とに養われて私達は十日を経過した。ある朝、人猿の騒ぐ声が物々しく岩窟《いわや》まで響いて来た。そして意外にも大砲の音が湖水の向こうから聞こえて来た。
 私達はハッと飛び起きた。
 そして岩窟から走り出た。私達は何を見つけたろう? ……
 朝陽に輝く湖水を越え、原始林の緑を背中にして遙か向こうの湖水の岸に五、六十人の人間が、大砲の筒口をこっちへ向けて群像のように立っている。
「ラシイヌ探偵の一行だ!」
 ダンチョンが嬉しそうにこう叫んだ。
「しかし」
 と私は躊躇《ちゅうちょ》した。
「袁更生かもわからない」
 二人は熱心に眺めやった。
 危険に対して敏感な、人猿どもは大砲の音に、すっかり度胆を抜かれたと見えて森林の奥へ逃げ込んで一匹も姿を見せなかった。私とダンチョンとは佇んだままなお熱心に眺めやった。距離が距たっているために袁更生の一味ともラシイヌ探偵達の一隊とも見分けることが出来なかった。
 しかし間もなくその一群がもう一度空砲を打ち放しこっちの様子を窺ってから、危険がないと思ったものか徐々にこっちへ近寄って来たので、その一群が何者であるかを私達はやっと知ることが出来た。
 ――彼らは私達の味方であった……

 情熱的の挨拶が双方の間に取り交わされ不思議の奇遇が言祝《ことほ》がれた。それから双方争うようにして今日までの経験を物語った。彼らの話す話によってあの恐ろしい山火事がどうして起こったか知ることが出来た。蛮人のために捕虜になったダンチョンの命を助けようため彼らが放した砲弾が蛮人の部落に命中して萱葺き小屋を[#「萱葺き小屋を」は底本では「萱葦き小屋を」]焼いたのがその原因だということである。そして彼らはあの素晴らしい焦熱地獄の火の中で土人と戦ったということであった。そしてとうとう土人どもを全く屈服させたあげく、袁更生の一団をボルネオ島の北の端れへ息も吐《つ》かせず追いかけて行って、そこで鏖殺《みなごろし》にしたそうである。しかし残念にも袁更生だけは取り逃がしたということであった。
 この惨酷な屠殺戦では、かなり味方も傷ついたので重い負傷者の若干《いくらか》を土人の部落に預けて置いて、負傷《きずつ》かない壮健の者ばかりがここまで来たということであった。

「君の方で僕らを裏切っても、どんなに僕らから逃げ廻っても、僕らの方では君のことをちっとも悪くは思っていない。そうじゃないかね張教仁君……」
 いつも寛大なラシイヌ探偵が、こう云って快活に笑いながら、力強く私の手を握った。その時は実際私の顔は恥ずかしさのために赧くなった。
「そればかりでなく……」と大探偵は私の顔をつくづく見て、「僕らの友人ダンチョン君を蛮人の毒手から救ってくれた君の義侠心に対しては心からお礼を申し上げる」
 こう云って彼は叮嚀《ていねい》に頭を私に下げさえした。私達二人は湖水の岸の倒木《たおれぎ》の上に腰かけて互いに話し合っているのであった。ダンチョンはレザールやマハラヤナ博士に人猿と老人を紹介しようと、皆んなを引き連れて森林の中へ先刻はいって行ったままいまだに帰って来ないらしい。
 それで四辺は静かである。
 湖水は平らに輝いている。
 恐龍も雷龍もトラコドンも大砲の音に驚いたと見えて水から姿を出そうともしない。樹々の倒影、雲の往来《ゆきき》、みんな水中に映っている。
 風が窃《ひそ》かに渡ったと見えて水面に漣《さざなみ》がもつれ合った。
 しかし再び静かになり湖水は黄金色に輝いている。神秘! 神秘! 正に神秘! この平和らしい湖水の底にこの平凡な湖の中に、羅布《ロブ》人の宝が、巨億の富が、はたして埋もれているとしたら何んというそれは神秘であろう! 神秘! 神秘! 正に神秘! しかも価値のあるこの神秘を今や我らは開こうとして湖水の畔に集まっている。
 神秘が神秘であったなら、我々は財産家になれるだろう。そうだ素晴らしい財産家に!
 私は湖水を眺めながらこんな空想にふけっていた。
 すると、ラシイヌ探偵が、何か口の中で唄い出した。
[#ここから1字下げ]
…………
山と湖とに守られて
我らの先祖が住んでいる
湖と山とに囲まれて
先祖の宝が秘蔵《かく》されてある
[#ここで字下げ終わり]
 突然ラシイヌは立ち上がった。そして厳《おごそ》かにこう云った。
「湖水へ船を浮かべよう! 皮で作った船がある! そして湖水の底を見よう! 湖水の秘密の第一歩をとにかく探って見ようではないか!」



[ 2006/01/18 00:21 ] [文芸]国枝史郎伝奇小説コレクション | トラックバック(-) | コメント(-)
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